この汚泥と恥辱に塗れた世界から私を救ってくれたのは、

神でも、世間でもない。

1人の男だった。

さらに言うならその男は――暗殺者だった。

惨めでどうしようもない人生に差し伸べられた手は、

血で赤く染まっていたわけでもなく。

うっすらと間接の浮き上がった細く長いその指があまりにも綺麗で、

思わず呼吸を忘れたほどだった。

暗殺者は、口数少なく、紳士的で、美しい指を持っていた。

彼は私の救済者で恩人。

例え何が在っても、私に手を挙げない人。















ソーターは腕がいい。

仕事でミスをした事など一度も無い。

彼は一流だ。失敗など有り得ない。

ソーターが主に活動するのはここアメリカだが、

彼自身は英国人だった。











気がつけば私がソーターと暮らしはじめて10年が経っていた。

10年前の蒸し暑い夜のこと、私の両親は端金欲しさに私を手放した。

それまでもかなり酷い暮らしだったけど、売られた先はもっと最低だった。

金持ちのロシア人はその特殊な性癖を満たすために私を買った。

おかげで良くわからない下卑た豚みたいな扱いを受ける羽目になって、

6つに満たない未熟な躯を縄で縛られたり、鞭で打たれたりして、

野蛮な快楽のための玩具そのものだった。

それでもまだマシだった。

最低なのはその先、ロシア人に飼われて数ヶ月経った頃、

私は初めて具体的な性欲のはけ口として役割を果たせと命じられた。

命じたと言っても、それは力による制圧で、

私はあられもない格好でベッドの上に括られ、

あと5分もすれば完全なる支配の生贄となっているだろう――。

まさにその時だった。

プツン、という単音が耳に聞こえたかと思った時には、もうすでに、

ロシア人は額から血を滴らせ、壊れた玩具のように私の上に多い被さっていた。

何が起こったのか全く理解できなかった。

ひとつだけ認識できた事といえば、ロシア人の背後にはひとりの男が立っていて、

その男が彼を撃って殺したという事だけだ。

見開いた瞳に、薄やみの月明かりが差し込んで、暗殺者を闇の中に照らし出す。

彼は叫び声ひとつ上げない私に感心しているようだった。

けれどもとても悲しそうに、そして同情するような目をして、

足音も無く私の側へ歩み寄って来た。

生憎、血を流しながら息絶えているロシア人の死体が重くて、

私は身動きが取れない。

だから唯一動かせる口を使って、初対面の暗殺者に問いかけた。


「わたしのことも殺してくれるの?」


暗殺者は狼狽えた様だった。

そして静かに首を振って「殺さないよ」と告げた。

私は泣き出した。

しくしくと蚊の鳴くような声で、小さく小さく。


「でもわたし、死にたいわ。

 きっとすぐにまた違う大人がわたしを怖がらせて楽しむんだもの」


暗殺者は重くてビクともしなかった死体をいとも容易くどかすと、

ベッドの縁に腰かけて――もちろん血なんて一滴も付いていない場所だった――、

あらぬ場所に絡み付く忌々しい縄をブチブチと切断して

私がすっかり動けるように手助けしてくれた。


「お嬢ちゃん――お父さんとお母さんは?」

「どこにいるか知らないわ。わたしのこと、いらないって」


膝を抱えて肩を震わせる私の肩に、彼はそっと自分の着ていたジャケットをかけた。


「おじさんが私のことを殺さないのなら、

 わたしにそのピストルをかしてちょうだい。

 ナイフだっていいわ。おねがい。

 だめなの、じぶんで、やらなくちゃ、」


暗殺者は人差し指を唇に当ててシーっと息を吐いた。


「これはおじさんの物だから、お嬢ちゃんには貸せないんだよ。

 それにおじさんは――お嬢ちゃんに死んで欲しくない」


泣きながら首を振る私に向かって、彼はそっと手を差し出すと

ずっと躊躇っていたであろう一言を喉の奥から囁いた。


「――おじさんと一緒に来るかい?」
















心臓が大きく跳ねた。

目覚ましのアラームがけたたましく部屋に響いている。

その親切で傲慢な警告音を乱暴に止めると、コンコンと扉をノックする音が聞こえた。


「どうぞ」

「ウォルターの電話の件なんだが――ああ!…!」


ソーターは部屋に一歩は入りかけたが、慌てて踵を返して部屋の外に出た。


「そ…そんな格好の時には、部屋に入る許可を出すものじゃないと、

 何度言ったら解るんだ!!」


この場合、下着姿にキャミソールの事を言っている。

私はあくびと背伸びを同時にこなすと、せっかくソーターの閉めてくれた扉を

思い切り開け放ち[そんな格好]のまま「おはよう」と微笑んで、

朝食を摂るためにさっさとリビングへ向かった。

背後で彼の大きな溜息が聞こえたが、私は知らないフリをした。

コーヒー片手に狭いキッチンに立っていると、

諦めた様子のソーターが、視界の端でチラチラと何かを振っている。

――スウェットのパーカーだった。

私は思わず苦笑した。


「ああもう、わかったわ。ごめんなさいソーター。

 ――どう?これでいい?許してくれる?」


許すも何もうら若く美しい脚がすらりと剥き出しではあったが。

ソーターはひとまずそれで手を打ってくれたようだった。


「…年頃なんだ。もう少し女性として自覚を持ってもらわないと、」

「いつも言ってるでしょ?私はソーターに[何か]して欲しい」

!」

「…でも嘘じゃないわ」

「…――気が気じゃない。こっちの身が持たない」


ソーターは目を伏せると、椅子に腰かけ、テーブルの上に愛銃を広げて

手入れを始めた。毎朝の日課である。

私はシリアルに無脂肪牛乳をたっぷりかけて、彼と向かい合って座る。

これがこの家の定位置だ。

朝はテレビをつけない。小さな音でラジオだけだ。

黙々と咀嚼しながら――彼の長い指先が鮮やかな手つきで銃を愛撫する様を見つめる。


「…――銃が羨ましい」

「私もソーターの指に触れられたい」

「頼むよ。からかうな」


――そうね。だってこんなのって悲しい。


「…――ウォルターの電話、昨日の23時に着た。

 予定が立たないってぼやいてたから、

 エイドリックの仕事の後で片付けるって伝えておいた。

 …まずかった?」

「いや、完璧だ」


テキパキと所作をこなすピストルのメンテナンスショーを目で置い続ける。


「…久々に夢を見たの。

 ――ソーターが…助けてくれた時の夢」

「……」


ソーターの手が止まるのと、私の溜息は同時だった。

私が席を立つのと、ソーターが両手を広げるのは同時だった。

彼の腕に飛び込む。

私が夢に怯える度、いつもこうしてきた――10年間。ずっと。

ソーターは私を抱きしめ、肩をさすって、動揺が収まるまで付合ってくれる。

彼の腕に包まれてようやくそこで自分が震えているのを認識した。

――思いのほか堪えていたらしい。


「…――ソーター。

 どこまでも一緒に連れて行くって、約束して」

「……」

「一緒に、どこへでも――私、どんな事でもする」

「……私にそれを誓わせないでくれ」

「嫌」

「……私たちは長く居すぎたようだね…、」

「おねがい、お願いします、ソーター…!

 わたし、ちゃんと、良い子にする、から」


ソーターは思わず――と言わんばかりに、私の肩を強く握ると、

必死に目を見据えて訴えた。


「何を言ってる?君は良い子だ。それもとびきりね。

 私などには勿体ないくらい完璧に育った。

 ――あんな残酷な経験をしたのに」

「あんなもの…、」

「君がその小さな胸に抱く私への想いは――ただの錯覚だ」

「…ソーター、私のこと……嫌い?」

「嫌いになれるわけがない。君が――大好きだ」


大粒の涙が止めどなく瞳から溢れては落ちる。

ぽたぽたと絨毯が微かな音を立てる。


「私を、愛してる?」


歯を食いしばって。もう涙が邪魔して彼の表情が見えない。

上手く呼吸が出来ない――最後の一言を必死に絞り出す。


「まだ私のこと――愛してくれる?」


背に、ものすごい力を感じた。

それは今まで感じた事もないほど強烈で独占的な――男の力だった。

二本の腕に、胸に、狂おしく抱きしめられて、

私はこれが今までの意図とは全く違う意味を持つ行為だと瞬時に悟った。

まるで掻き乱されるみたいに、彼の掌が背や腰を這い回る。

引き寄せても引き寄せても足りないと言わんばかりに――。

しがみついていないと身体が千切れそうだ。

良い知れぬ悦びに震えが走る。

ソーターの広い背中に必死に手を這わせて、身を寄せる。

抱きしめて、抱きしめて、抱きしめられて。

場所も、立場も、年齢も、境遇も、呼吸すら忘れて。

この世界でたったひとりだけ、私を愛してくれる人。

彼は暗殺者で、親代わりで、でもその前に、ひとりの男。

そして私は彼にとって娘でも妹でもなく、ただの女になりたかった。

何度も角度を変えて、深く深く口づけられて――。

彼はようやくそこで我を取り戻した様だった。


「私は――なんて事を、君に」


全て言い切る前に、私は彼の目を見つめながら首を振る。


「いいの…これでいいの。これがいいの。

 私――あなたにこうされたかった」


彼の首に腕を回し、耳元でそっと囁く。


「あの日からずっと――ずっとよ」


言いよどむ彼の背筋に、甘い痺れが走ったのが解った。


「…――真っ当に育ててきた…つもりだったんだがな」

「私のベースが悪いのはソーターの責任じゃないわ?」

「自覚はあるんだな?この性悪娘」


冗談めかして、彼が悪戯っぽく笑う。


「…――しかも君は勘が鋭い」


ソーターは壁に寄りかかったままずるずると滑り落ち、

床にペタリと座り込んだ。

もちろん私は彼にしがみついたままだから、

同じように床に脚を投げ出す。

ソーターは眼鏡を取り、レンズを拭きながらぽつぽつと続けた。


「…――いつ私と距離を取らせようか――ずっと迷ってた。

 全寮制の学校へ入れて、同じ世代の健全な世界に、

 頭の先から爪先までどっぷり浸かれば、

 私に心が向きにくくなるんじゃないか…とかね。

 それも全部――こうなる可能性に気付いていたからなんだろうな」


彼の腕に縋り付いて、顔を埋める。

猫のように甘えることも、ふたりの間では意味を持つ。


「…――ごめんなさい。私、悪い子」

「いいや。は良い子だ。

 仕方ないのさ――何たって私は、かなり[悪い男]だ。

 人を殺すのが仕事だからね」

「……きっと」


もうソーターの目に、迷いや戸惑いの色は微塵も浮かんでいなかった。

慈しみの、そして愛の――恋人の目をしていた。

互いを吸い込むように見つめ合って、私も迷いなく告げた。


「あの日すでに、あなたは私の心を打ち抜いていたのね」

「…――参ったな」

「正直に教えて…?」

「…――には降参だ。

 そこまでバレちゃ、私の面目も丸潰れだな。

 ……怖いくらい美しい子だと思ったよ――そして私が守らなくては…とね」


私の脳裏には、その長い指をからませて、うっとりと引かれるトリガーと、

送り出される銃弾、そしてその弾に、真っ赤に熟れた恋心を打ち抜かれる

幼い自分の姿がありありと浮かんだ。

なるほど――そうね。

あなたは一度も獲物を逃した事なんてなかった。

だからこれも当然の宿命だと思って、どうかそのまま受け入れて。

そして私を愛し続けて頂戴。

それに。

あなたも私も

どうせいつ死ぬか解らないんだから。




















































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「リボルバー」よりソーター夢。

ソーターさん、大好きです。

神経質だったり、少しどもったり…そんな平素からのあの仕事モード。

ある意味、逆に引き金引いている方がリラックスしてるんじゃないのかなーなんて

思えなくもないです(笑)ソーターさんにはスイッチがついているの?

でもあの切り替えが自然な所や、仕事がスマートな所がたまらないです!

だからこそスイッチ入るとスゴそうだな〜…なんて。

独り身っぽいソーターさんの、罪深い秘密。

幼女は正義と言わんばかりです、すみません☆

20120510 呱々音