掘った。

私は、掘った。

私たちは――掘り続けた。

そして幾層も土を、被せ続けた。

















嗚呼 “黒き死の病”がテューリンデンの村を浸食してゆく。

浮き出す血で肌を黒く染め、人々は苦悶の果てに死ぬ。

その様は実に散々たる光景で、私の目の前には途方も無い無限の地獄が広がっていた。

黒死病が発症した者がいる家の扉には、白いチョークで×が付けられる。

それは生者にとっては、確かに「近寄るな」という警告のサインに他ならない。

しかし…私たちにとってそれは、全く違う意味を孕んでいた。

そう――“穴を掘れ”と――。







重々しい樫製の扉はここの所、毎日最低でも10回は叩かれる。

それは心無く、横暴で、乱暴なノックである。

訪問というより、それはむしろ八つ当たりのにけたたましく、扉は打ち鳴らされた。

訪問者が去る頃を見計らって、私は扉を隙間ほど開けて外に手を伸ばす。

そこには、必ず手紙が置かれているからだ。

大抵の場合、手紙と呼ぶにはあまりにもみすぼらしい、朽ちかけたボロ紙であった。

そこには引っ掻いたような字とも取れぬ乱雑な字で、名前が書いてある――死者の、名前が。

「……父さん…ホルツ家の、」

「いい。誰かなど興味は無い……いくつだ」

「…2人」

「――2つ、か」







父は――嗚呼そうじゃない。

《私たち》は墓守だ。

それは決して尊敬される仕事では無いくせに、無くてはならぬという

無惨な需要の元で成り立つ、忌み嫌われた仕事である。

平和な時は――と言っても、平和を何の基準の元に成り立たせるかなど、

そんなものは実に曖昧な印象でしか無いのだが、

少なくともこの黒死病が村中に蔓延し始める前までは、

私たちは村の外れにある森墓地の入り口に佇む家で

日々、屍体の面倒を見ながら、ひっそり暮らしていたのである。

悲しみに暮れる遺族の横に墓穴掘り、土を被せて墓標を立てる。

墓穴は雑然と掘るものでは無い――というのが父の信念である。

美しく、均整を取り、整然と穴を掘り、屍体が深い場所で眠るための手伝いをする。

父の腕は逞しく伸びながら、いつだって恥じる事無くスコップを握りしめていた。

幼い頃から、自分の周りには、厳かで冷たい死臭が寄り添い、

私にしてみれば、生者はいつだって遠い世界の生き物に思えた。

やましい要素などなにひとつ感じた事は無いのにも関わらず、

なぜか子供というのは“異質”と認識するや否や、

誰よりも早く攻撃心を剥き出しにする生き物であった。

だがら私はよく村の子供達に石を投げられては、血を流して村から帰ったものだ。

その度に父は丁寧に私の傷を拭ってくれた。

そう――父の二本の腕は、葬るためだけに在るものではないのだ!

何か小さくて危うい存在を、温め、守る事だって出来るのだ。

私はそう思う度にとても誇らしい気持ちになった。

しかし今では…若く逞しかった父の目元には絶望と疲労が滲み、

老いた影がまるで煤のようにべっとりと、張り付いてしまった。







村に初めて黒死病が出たその瞬間。

父は言った。

「私たちが死ぬ事は絶対に許されない。

 死者を埋める事が私たちの仕事なのだから」

墓守の家には、そういった流行病や災害、虐殺、戦火…そんな事を見越して、

常に地下に大量の備蓄を行っている。

酒と食料だけに限らず、保存しておけるありとあらゆる物資が

膨大な時間をかけ、人知れず蓄えてあった。

これは我が家系に続く、永年の習慣である。

死ぬ事は許されない。

生き延びて、最後の最後まで屍体を埋め続ける。

そうでなければ墓守の意味までもが死に絶え無くなってしまうのだ、と父は言っていた。

嗚呼……されどこの死の病は、父と私の心身を確実に蝕んでいた。

もはや屍体は尊敬の念を失わせる“黒い物体”でしか無く、

土は還るための温かな布団ではなく、ただの“蓋”になった。

精も魂も尽き果ててなお、父は穴を掘り続け、私は土を被せ続けた。

眠る事すら許されぬ晩が日を増す毎に、多くなる。

それでも私たちは墓守という記号に縛られ、執着し続けた。

村中に横たわる屍体を折り重ね、墓穴は整然と掘られる事すら困難になった。

いつしか深く大きな穴を掘っては、その穴へ何体もの屍体を落とすようになった。

ある晩、珍しく私たちが顔を合わせて食事をする機会を得た時、

――とは言え、食事とは名ばかりでかびたパンを啄むような侘しい物であったが――

父は私の手を握りしめて、涙した。

ただ一言「お前は温かい」と何度も何度も繰り返して――。

私は父の涙の温かさに、忘れていた人の感情を思い出し、泣き叫んだ。

こんな地獄が許されて良いはずが無い…!嗚呼神様!

泥と死臭に塗れた父娘は、驚異的な信念それのみを杖に、

墓守という苦行の代わりに、ただ生き続けた。

そして村には――ついに“埋める物”が無くなった。

私は無性に、久しく直視出来なかった父の横顔が見たくなった。

隣に佇む父の容姿は実年齢より遥かに二十程も老け、白髪が無惨に伸びっぱなしだった。

哀しくなって父に手を伸ばそうとすると、父はそれをかわし、顔を背けた。

「……私の事など放っておけばいい。

 それよりも私は…お前の白くて美しい手を…再び見たかった」

「……手?……あ…」

そう言われて初めて、私は自分の手が萎びた果実のように萎縮し、

骨張って楠んでしまっていた事に気付いた。

血管が透ける程であった白い皮膚は死に絶え、

死人の垢が何層にも塗り込められたような醜悪さを称えていた。

ぐっと喉の奥が燃えるように熱くなった。

――駄目、押し込めなさい、押し込めるのよ。

老婆の手は拳を握り、父の目を見てぎこちなく微笑んだ。

「…大丈夫、すぐに元に戻るわ」

父は泣き出しそうな顔で、力無く笑った。

「――ひと仕事してくるよ」

「こ…んな時間に?」

否、そうではない。そんな事が言いたかった訳では無い。

もうこの世の果てまでだって私たちの仕事なんて残っていないはずだ!

にも関わらず、こんな時間から一体何をするつもりなのだと聞きたかったのだ。

それでも受け答えの自然な流れに沿って、私はひどく間抜けな問いしか咄嗟に返せなかった。

「あ…お仕事、…私、手伝うわ」

「いい――は先に休みなさい」

妙にはっきりと明朗に諭され、私は呆気なく引き下がる事しか出来なかった。

むせ返る程強い酒を湿らせた布で身体を拭い、私は頽れるようにして深い眠りをに溺れた。

悪臭と空腹のうちに昏睡したにも関わらず、今宵ついに悪夢は見なかった。












貪るように眠り、翌朝目覚めた時、寝台に父の姿は無かった。

ついに父は昨晩寝床には戻らなかったようだ。

其れどころか、見渡す限りではどうやら家にすら居ないらしい。

父の様子が――ひどく気になった。

軋む身体を引きずりながら、樫製の扉を寄りかかるようにして開ければ――…。







嗚呼…


嗚呼…、


嗚呼…!


神よ!貴方はなんという事を……!!







扉を開けて一番始めに目線を落とす、その場所に、父は、

父は――自分の墓穴を、掘っていた。

人の身体を埋める為に必要な分の土をかき出した土山。

最後に設えるため脇に寝かせてある墓標。

どれもこれも気が狂う程に見慣れた光景だ。

それなのに――嗚呼、それなのに――!

今その墓穴に収まっているのは冷えきった父の骸だ!

穴の大きさや深さから、父が瀕死の状態でそれでも懸命に掘り続けた事が痛い程よく解った。

職務を果たし、ついに黒死病に侵された父は死を悟り、自らの死に場所を確保したのだ。

その処理を――私に、託して――。

もういっそこのまま、父と一緒に埋まってしまいたかった。

しかしそんな事は許されない。

私が死んだら誰が父に柔らかな土をかけてやるというのだ。

これは洗脳かもしれない。

だが悲しいくらい、それを恨む事だけはどうしても出来なかった。

父の名を叫び、咽び泣き、私は何度も挫けながら、

夜中までかかって父を土の下に葬ってやった。

そして私の世界は今、崩壊した。

にも関わらず、この村には――私だけが残った。










ついに死ぬのだ、と思った。

吐き気と高熱で意識は何度も何度も彼岸を彷徨った。

父はよくこんな状態で自分の死に場所を掘れたものだ。

私にはとても掘れやしない。

こういう物にはやはり性別も関わってくるのだろうか。

吐瀉物で床も寝台も汚れ、病が辛くて泣くというより、そんな汚い自分が嫌で泣いた。

引きちぎられる程の痛みに踞っては、また吐く。

衰弱し、熱が見る見るうちに体力を奪ってゆく。

無意味な液体を吐き上げる事すら止めた時、私はきっと死ぬのだろう。

薄い意識の中で、汚物にまみれた私の死体だけが地上に置き去りにされる情景を想像した。

狂ってなお、それだけはどうしても耐えられなかった。

宗教観というよりむしろこれはきっと――墓守の性なのだろう。

だからこそ父はむしろ死をたぐり寄せるような真似までして、

自分の屍体を隠す安息の場所を確保したのだろう、と悟った。

(…私の屍体を…隠さなくては…)

何をどう努力したとて、私にはもう穴は掘れない。

ならば穴を――穴を探さなければ――!

…――嗚呼、なんだ…そうか――。




そうして私は井戸へ至る事を決意した。















 ・ ・ ・













(――ついに死ぬ、か)

メルヒェン・フォン・フリートホーフは――ただ漠然と思った。

あの娘…おそらく熱のせいで、既に視力はほとんど使い物にならぬだろうに。

それでも娘は――は、テューリンゲンの魔女の井戸を目指して這ってくる。

途中、何度も意識を失っては動かなくなる。

震えては嘔吐し、肌はみるみるうちに色失ってゆく。

(待て。待て。待て。――果たして寓話の最後は…これで合っているのか――?)

「嗚呼!」

「どうしたんだい、エリーゼ」

「解ッタワ!――アノ娘、似テルノヨ」

「…エリーゼ――……それは一体…何にだい?」

「マァ、メルッタラ、気付カナイ振リヲスルノネ――アノ娘、魔女ヨ」

「……魔女…、」

「忌ミ嫌ワレテモ献身的。ナノニ友達ナンテ存在、一人モイナイ」

「…確かに彼女は“魔女”さ。

 女児があの家系に生まれ堕ちる度、村人はありもしない妄想を信じて

 あの家の娘を“魔女”だと思い込んできたんだからね」

そう…だからこそ彼女の母親もまた――。

「デモ…アノ娘、ツイニ“本物”ニナッチャッタミタイダケド?」

魔女…魔女…嗚呼――母上!

その言葉を反芻するだけで、胸が締め付けられ息が詰まるようだ!

「…ねえ、エリーゼ、」

「……フン。構ワナイワ。…デモ私ハ此処二残ルワネ」

「何故だい?」

「ダッテ。アノ娘二嫉妬シテ私ガ殺シチャッタラ、其レコソ意味ナイデショ?」

エリーゼは高らかに嘲け、それだけ言い残すと、

深い眠りを決め込むように、薔薇を纏って瞼を閉じた。

つまり、彼女は井戸に残り、これから僕がする事に対して見てみぬ振りをしてくれる…という事だ。

「エリーゼ――……ありがとう」





言うや否や、僕は丸い夜空に向かって手を伸ばした。

そうして半分腐りかけた娘の落ちて来た身体を――この腕に抱きとめた。















 ・ ・ ・













細い銀製の針を頭蓋に埋め込まれたような感覚だ。

頭に走る痛みには、例えがたい苦痛があった。

それなのに――嗚呼、それなのに――。

《痛み》は《生》を表していた。

「…――っ…は」

もがくような素振りで必死に起き上がろうとすると、

誰かに止められた。

遮るようにそっと肩を抑えられれば、私の身体はぎこちなく軋む人形のように

従順に、再び横になる。

触れられた場所が氷の様に冷たくて私はその箇所に無意識に手を添えていた。

私はまだ…――朦朧としている。

恐る恐る瞼を持ち上げると、暗闇が広がっていた――おそらく夜なのだろう。

寝台の感触だけは解る。

ここは――私の家だ。

私はなぜ生きている?なぜ戻った?井戸は?

それとも私の瀕死の前進は、夢?

そして今、私の隣にいるのは――、

「…だ、…れ…?」

自分で発したそれは、手負いの獣のうめき声のような醜い声だった。

まだ熱があるようで身体の内に灼熱を感じているくせに、私は寒くて寒くて震えていた。

闇に紛れて姿の見えない者は、明らかに問いかけに応える事を躊躇っている様だった。

私はそんな闇ですら目前から消えてしまう事が怖くて必死になった。

「っ…こ、こに――い…て、」

鈍痛が暴れながら隅々まで駆けた。

胸に、頭に、全身に――。

すると闇は手を伸ばし、私の額に冷たい掌をそっと宛てがって囁いた。

「…――今は眠るのさ。熱を下げなければ…君は死んでしまうよ」

まるで闇が喋っているようだと思った。

「…、さむく、て――でも、あ…あつ…い、の、」

私は言いながら泣いていた。

どうしろと言うのだ。

解っている――どうせこれは下がらぬ熱だ。

下げたくても下がらなぬ物なのだ。

そしてこの全身の痛みは死を意味している。

私は死ぬ。

そう、死ぬのだ。

嗚呼――半端な意識ほど邪魔な物は無い!

急激な恐怖と不安がまざまざと脳裏を支配し、私は咽び泣いた。

子供のように、ただただ泣きわめいた。

怖い――!

そう――私は怖かったのだ。

誰ひとり頼れる者がこの世に残っていない恐怖。

死ぬ瞬間の恐怖。

そして自分の骸だけが地上にむき出しで、孤独に晒される事への恐怖――。

「…、」

名前を――呼ばれる。

それによって、私は私という存在を一瞬にして思い出す。

そして私は――私は闇に……抱かれていた。

私の身体に吸い付くように纏わりついて、二本の腕は私の背中と頭に添えられていた。

頬に、衣服の合わせ目が当たっている。

「僕がその熱を吸い取ろう――だから君は、このまま眠るがいいさ。

 ねえ。もう涙をお拭き。そんなに体力を消耗しては…本当に死んでしまうよ」

なんて冷たい身体なのだろう。

まるで屍体に抱かれているようだ――。

だが私にとってそれは遥かに身近で、親しみを持てる事もまた事実で――。

そんな存在に拘束された事に、安堵している自分が滑稽だった。

私は泣く事を止め、ただひとつ頷くと、呆気なく意識を手放した。

「…――良い子だ」

遠い所から何かが聞こえたような気がしたが、私にはもう聞こえていなかった。















 ・ ・ ・













娘の身体は柔らかかった。

その肉は紅く腫れ上がって、有り余る熱を持ち、

今にも皮膚を突き破らんと無闇矢鱈に暴れまくっていた。

僕はそんな醜悪な活動が甚だ許せず、の身体をくまなく抱きしめてやった。

案の定、熱を失った僕の身体は、みるみるうちにの粗悪な熱を奪ってゆく。

――こんな馬鹿げた病に、孤独な魔女を殺させてなるものか――。

全ての沸騰を奪い尽くす頃、空は朝を迎えていた。







「…――グーテンモルゲン、お嬢さん」

他にかける言葉も無かったのだ。

そう挨拶する事くらいしか、方法が解らなかった。

娘は――は、僕の腕の中に収まって、昨夜とは比べ物にならぬ程、

頬に健全な薔薇色をさして、掠れた声で挨拶を返して来た。

「…グーテンモルゲン、……お優しい方、」

僕は思わず目を見開いた。

「……酷い呼ばれようだ」

「…では――なんとお呼びすれば……?」

顔を背け、投げやりに言った。

「…………メル」

「メル…さ、」

「…メルでいい」

「…ダン、ケシェン……メル」

僕は頷き、腕の拘束を緩め、そっと寝台に寝かせてやった。

熱が引いたとは言え、目に見えて衰弱していた。

――体力の消耗が著しい。

このままではいけない――何か食べさせなくては――。

「貴方は…?なぜ…助けて下さっ」

彼女の麗らかな唇を、この冷たい指先を宛てがい、黙させた。

「…――その質問に答えるのは、何か口にしてからでも遅くは無いはずさ」

自生していた芋を茹で、地下の食料庫に残っていたチーズを薄く切り、乗せてやった。

それは遠い記憶を手繰り寄せる作業となった――まずはこんな物で…良かった気がする。

身体の弱かった僕に、母はよく山羊の乳と芋で温かなスープを作ってくれたっけ――。

――そんな事を、思い出した。

「…――お食べ。元気が出る」

は大人しく食事を始めようとしたが、どうやらまだ上手に食べれないらしかった。

少し手が震えていた――痛むのだろう。

僕はなにも言わず、柔らかく潰した芋をすくい、口元へ運んでやった。

彼女もまた――何も言わず、それを租借した。

人ならざる者が生きる手伝いをするなど――実に滑稽で惨めだという事は、重々承知していた。

だが…それでも僕は、彼女の口へ芋を運び続けた。







腹が膨れると、は眠気の波に教われた様だった。

「そのままお眠り――」

「メ…、ル」

は控えめな仕草で、しかし拒む事など叶わぬ程しっかりと、僕の袖を握りしめた。

「――大丈夫さ。君は少し眠るだけ……死はもう遠くへ去ったのさ」

諭してやれば、とても素直に意識を手放す――そう、良い子だ。

僕はそうしてしばらく、彼女の寝顔を見ていた。






太陽が黄昏に導かれ沈むと、優しい月が光ひとつ灯る事の無い死んだ村を闇に浮き上がらせた。

深い眠りに沈むの横に腰を下ろし――もう何度そうしたか解らないが――

彼女の寝顔を静かに見つめてみる。

薄い肌の下には確かに紅い血が流れ、長い睫毛は月の光を受けて煌々と輝いていた。

もう長い事、手入れの忘れられていた髪にそっと指を差し入れてやると、

彼女はまるで安心しきった子供のように微かに身を捩った。

僕は――彼女の唇に口吻けていた。

それは腫れたように熱く熱を帯び、柔らかく膨らんで、

気が狂い泣き叫びたくなる程に、甘美な接吻。

眠っていたはずの娘は、小さな手で僕の胸を押し、僕の接吻を求めたり拒んだりした。

唇が解放されると、は聞いた。

「…なぜ――私を助けて下さったのですか」

それは脆く、美しく、静かに泣いていた。

「…――簡単な事だ……もうこの村には君を埋めてくれる人間がいないからさ」

「だから…私は――井戸へ身を投げたのです」

指で涙の粒を拭ってやると、予想に反してはその手を捕まえ、頬をすり寄せた。

僕の手は哀しい程に冷たく――。

「――僕は【イド】の底で……それを受け止めたのさ」

「貴方は、」

「奈落へ堕ちた、ただの死人さ」

「…まさ…か、――テューリンゲンの…魔女の…?」

「――はは、嗚呼…っそうさ…!」

それは口から吐き散らす怒声のようだ。

「母は聡明な女性だった!

 だが賢女と讃えられた母は、果ては魔女となってしまったのさ!

 そして君だって、もう――立派な魔女なのさ」

は目をいっぱいに見開いて、僕の仄暗い瞳の中を見つめる。

この瞳のどこかに、真意を探しているのだろう。

だが――そんな事をすればする程、その言葉の通りだと彼女は認識せざるを得ないだろう。

「…――私、が――魔、女?」

「残念ながらね。…だが…果たしてこの状況で――誰が其れを、裁ける――?」

僕は笑った。

惜しげも無く凶悪に、笑った。

「…っ」

「怯えるのかい?――構わなさ。

 拒絶され虐げられる事には慣れている……それはお互いそうだろう?」

「……ええ…慣れているわ…おそろしいくらいに…、」

過去の苦々しい痛みを反芻する女性ほど美しい物が、

果たしてこの世に存在するのだろうか。

そんな様を見ていると、彼女の温もる身体が、無性に愛おしく思えてくる。

「…君は…ご褒美は好きかい?」

「今――何て…?」

肩をすくめて戯けてみせた。

「いいや、なんでもないさ。

 嗚呼!それよりも湯を沸かそう。

 それで身体を清めると良い。穢れた死臭も消えるはずさ」

「メル?ねえ、誤摩化さないで頂戴」

誤摩化すつもりなど無い――だがまず君は、本来の姿を取り戻すべきだろう。

今、僕にとって、それこそが最優先されるべき要素に思えただけの事だった。

「禊をおし――まずはそれからさ」









の全身を覆っていた“穢れ”は、

リンデンハーブの石鹸とともにすっかり洗い流されていた。

芳しい香りが鼻を侵し、僕は自分に足りない要素が、

彼女の香りで満たされたように思わず錯覚した程だった。

恍惚とする僕を見て、は微笑んだ。

そして櫛を預けて言った。

「少し辛いの…後ろの髪を、梳いて下さらない?」

「――お安い御用さ」

櫛を通す度に、小さく頭が揺れる。

人形(ともだち)の髪を梳くのとは――また違った感覚に見舞われる。

されるが儘の彼女の耳元に、僕は唇を宛てがい、囁いた。

「…――やはりね。とても綺麗だ。美しい。思った通りだ」

「っ」

顔を紅くして、は顔を伏せてしまった。

僕は構う事なく続ける。

「――は屍体を折り重ね、埋め続けたね。

 最後の最後まで――ただそれだけを全うして来た」

「わ…私は…言い付けを…守っただけ…」

くすり、と笑う。

「孤独の中に置き去りにされて尚も――?」

「先ほども申し上げたでしょう…?孤独には…慣れている、と」

「嗚呼。だがどう見ても――お父上も君も、正気の沙汰とは思えない。

 否、気が狂って当然の惨状さ!この地獄では何をしたって正義だ!

 だがしかし…これは驚くべき執着の為した異形な偉業には違いないのさ」

の肩は小さく震えていた。

それでも僕の言葉を遮ろうとせず、攻撃を受け入れようとする寛大な素振りを見て、

自分の加虐心が疼くのが解った。

「そして結果として皮肉にも――はこの世界に置き去りにされてしまったね」

この娘は、神の気まぐれに翻弄されるが儘、ある種の贄に選ばれてしまったのだ。

そう――僕はこの献身的で孤独な美しい娘が、哀れで、哀れで、我慢ならなかった。

ならば――嗚呼、せめて――。

「…そんなに泣いては…アルビノのように目が緋くなってしまうよ」

「だって、ふ…、メ…ル、わたし、」

少し強引に横柄な素振りで、の唇を塞ぐ。

口吻けたそれは、先刻と同じように、求めたり拒んだりする。

何故かそれすら急にもどかしく思えて、割れ目に舌先を差し入れてやった。

彼女は抵抗する。

だがそれも余興に過ぎない――。

朦朧な水気ばかりになった瞳で睨みながらも、

苦し気に頬を上気させ、まるで煽られているのかと思い違う程に――。

「…――言ってご覧――?」

この蠱惑が、君を縛る箍からの解放へのきっかけに足るものならば、

僕は僕のすべてをかけて、勾引し、甘い毒を使って、君の愚かな優しさを守ろう。

「ご褒美をあげよう……何が欲しい――?」

そっと首筋に手を添えてやると、彼女の細い喉は脈を打ち、

その小さな身体の中で、まだまだ生きてやろうと

浅ましいまでに貪欲に、図々しく、心臓は跳ねている。

「――私はメルと――――同じモノに、なりたい…。

 …どうぞ…この身を……死で侵して――殺して…頂戴」

嗚呼――どこまでも愚かで、だが――嗚呼それでも――。

「っ…けれどその前に――」

――言え――言うんだ。言ってしまえ――否、どうか言ってくれ――!

「……どうか、私を……私を抱いて――くだいませんか」

消え入るように吐き出された声は、刹那。

抑制されていた欲は僕に獣の皮を被らせ、溺れるようにの首筋に食らい付かせた。

「死人とまぐわうなんて…魔女にはお誂えさ」

「…っ」

「これもネクロフィリアって事になるのかな」

「そん…なんっ…じゃ、…っ」

首筋に顔を埋め、両手はもう彼女の前でしっかりと結ばれている。

「もちろん死人に犯されるなんて初めてだろう?」

そうして恥じらう肌の上を掌はくまなく這ってゆく。

芳しく、愚かで、優しく、清らかで、滑らかな、脈打つ、嗚呼――嗚呼、嗚呼!

愛おしくて気が狂いそうだ!

さあ――どうかその悩まし声を、僕だけに囁いておくれ。

「…嗚呼――メル――……」

















死者の世話をし、屍体を埋め続けた娘は、全ての死を見届けた果てに、

ついに死人に愛されてしまう。

そして最後は自らの意志で、死人の花嫁になる運命を選んだ。

これこそが彼女が【イド】へと至る――黒い森の寓話――。


















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掘れた…じゃない、惚れた女をペストで死なせるなんてプライドが許さないメルメル。

だったら俺が奪っちゃる!という男前で狂気なメルメル。

助けといて奪う、という形がポイントのようです←

(エリーゼたんほどドSじゃないけどね…多分)

やっぱりうちの【イド】は、ひど過ぎです。

こんな所まで…お粗末様でした。

20100622 呱々音