男がいる。

昼下がりの日課の真っ最中である。

この男、とあるマンションの管理人である。

掃き掃除をしている。

早朝を避け、半端な時間帯を選ぶのは、なるべく住民に会わないようにするためである。

なで肩である。

それもかなりの、なで肩である。

この男、つい先日人生の大転機を迎えたばかりである。

それで随分マシになった。

何がかと言えば、超のつくほどの人嫌いが、である。

この男、とても珍しい“個性”を持っていた。

忌まわしい能力と呪った時期もあったが、件の“大転機”とやらのおかげで、

今は以前ほどつらく感じることが減った。

日光、視線、病原体、外界のあらゆる刺激から、

過剰なまでに身を引いてびくびくと怯えていたのはつい先日までの話である。

それもすべては、人の記憶や感情、つまるところ“残留思念”と呼ばれるものを、

読み取らぬように努めるためであった。

物や場所、そういうところに、強い想いが残る。

それに触れたり近づいたりすると、相手の記憶や感情が、どう、っと流れ込んでくる。

これがきつい。

もう、相当にこたえる。

人の良い面だけを見られる能力ではない。

人の汚い部分まで、嫌というほど見えてしまう。

――人の心の醜さに嫌気がさす。

この男は昔から、この能力のせいで苦しんできたのである。

ほんの一時期、この能力を使った一芸で芸人として名を馳せたものの、

結局それも多大なストレスがたたってすぐに破綻した。

相方であった道楽者の丸山竜司とは、互いを憎み合う間柄ではあったのだが、

それもその“転機”とともに、良い方向に改められた、と大筋はそんな所である。

さて話を戻そう。

マンションの管理人である彼は、掃き掃除をしているわけだが、

その風貌は以前に比べてかなり軽装になっている。

洗いざらしのシャツに、薄手のカーディガンを羽織っている。

帽子、ストール、マスク、ゴーグル…

何枚も着込んであらゆる刺激を謝絶していた頃を思えば、

まあマスクくらいは多めに見てやってもいいだろう。

ただ手袋は必須である。

ともかく、そういう格好で、掃き掃除をしている。

顔は上げず、挙動はやはり少し怯えたような、警戒心はあるものの、

何度も言うようだがこれでもかなり“マシ”なのである。

この男、この日実は少し――いや、かなり緊張していた。

というのも、今日これから新しい入居者が越してくるからだった。

とは言え、引越トラックの姿が見えたら一目散に走って、

最上階の自分の部屋に戻ろうと決めているわけだが。

引越屋というものは往々にして遅れてくるが、いかんせん気になる。

そわそわとして落ち着かない。

なぜならこの男、新しい入居者の名前を、よく知っていた。

知っていると言っても面識はない。

顔は知らない。

ただ、存在を、知っている。

一方的に知っているのだ。

さて、掃き掃除が終わってしまった。

さすがにこれ以上は粘れない。

すると遠くからそれらしき音が聞こえてきた。

日頃より鍛えられた警戒心、さすがは耳聡い。

弾かれたように顔をあげると、

トラックが着く前にさっさと掃いたゴミやらほうきやらをまとめて、姿を消した。

そうして舞い戻った最上階からちらりと見下ろせば、

やはり例の入居者の荷物が乗ったトラックだった。

それらしき女性が、追走してきた赤い車を下りた。

――可憐だ。

こそこそと頭を突き出して覗き込んでいると、女性は視線に気が付いたのか、

はたまたこれから新たな生活を始める家を眺めたのか、顔を上げた。

視線が一瞬交わったようにも思えた。

だがまるでリスかイタチかネコのように、

男はひゅんと部屋へと舞い戻って隠れてしまった。

鍵をかたく閉じる。

背に新しい変化の気配を感じながら。

仙石和彦のひ弱な心臓は、どっどどっどと暴れていた。















































不動産屋から入居希望者の書類が送られてきた。

――やけに字がきれいだな。

そんなことを思いながら、いつものように慎重に目を通していると、

まずその名を目にして時が止まった。

――

まさか、と。

職業欄を見やれば――“イラストレーター”。

これはどうも、たぶん、間違いないようではある。

が、世の中ひろい。

同姓同名のイラストレーターがいたって、作家がいたって、不思議じゃない。

鼻先がくっつきそうなほど書類に顔を近づけて、

まさか、いやでも、もしかしたら、そんなはずはない、などと呟く。

添付されていた免許証のコピーを確認するが、正直複写の複写。

モノクロームの荒い写真だから、いまいち顔ははっきりしない。

不動産屋の審査をした若い担当者からは、

留守電に「イラストレーターとして収入も安定してらっしゃるので問題ないと思います」と、

なんとも核心に触れない一言が残されていた。

うんうんと頭を抱えて、キャパシティを超えた仙石は、

愛する熱帯魚に泣き言を打ち明けながら、噂の入居者を迎えることにした。












例の引越トラックが帰る音がしてから2時間ほど経つ頃。

味気ないインターホンが鳴ったので、仙石は床から飛び上がっておろおろした。

椅子の足に引っかかって転びそうにもなった。

躊躇ったが、小さな声で「…はい」と出てみれば、やはり。


「お忙しいところ、すみません。

 3階に越してきました、と申します。

 今日からお世話になるので、ご挨拶に伺いました」


はひ、と上擦った声でインターホンの受話器をおくと、

しばし行ったり来たりしたが、

珍しく鏡の前で身だしなみなどを整えて、

実に控えめにドアを開けた。

開けたというより、隙間を作ったような感じである。

そろりと隙間から外をうかがいながら、徐々にぬるりと首を伸ばす。


「はじめまして。301に越してきたです」


言って、微笑んだ。

――これは眩しい。

仙石はひたすら面食らった。

面食らったが、どもりそうになりながら、なんとか返した。


「…仙石です。管理人の」

「あの、これもし良かったら、」

「…なんでしょう」

「お蕎麦、なのですが」

「おそば…」

「お嫌いでしたか」

「あ、いえ…好きです」


そう言って藍色の風呂敷包みを渡されたものだから、

仙石はうっかり受け取ってしまった。

ぺこりと頭を下げ、去ってゆくを見送りながら、

ぽつねんと立ち尽くした仙石は、小さな溜息をついた。

――確かめれば良かった。

面と向かって聞ける度胸などありもしないのだけれど。

で、その蕎麦とやらがまた厄介だった。

風呂敷の中身を改めてみれば、これがどうやら自作の手打ち蕎麦なのである。

これには仙石、参ってしまった。

よろしくない。

人の作った物、ましてや料理ってものには、

それはもう強い“思念”がこもっているものなのだ。

だから意図せず、もしかしたらばあの憧れの作家…かもしれない女性のイメージを、

根本的に覆しかねない。

そうなれば当然、手打ち蕎麦など受け取らなければ良かったと後悔するに決まっている。

どうしたものか。

それこそ何時間も迷ったけれど、無碍にも出来ぬ。

打ち立ての蕎麦――まあ美味しいとも限らないのだが、

仙石という男、蕎麦は嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。

さてこの男にしては大きな掛けに出た。

結局調理用の手袋をはめて、慎重に調理し、緊張のまま口に運ぶことにした。

緊張しきっていた仙石は、蕎麦を飲み込むと、ほろりと肩を落とした。


「……んまい」


すん、と鼻を鳴らした。
















それから数日後のことである。


『はい』

「あの……仙石……、管理人です」


はぁい、と明るい声がインターホンから返される。

ぴょこんと顔を出したは、メガネをしていた。

仙石の心臓がはねる。


「っ、これを……」


緊張で縮こまった管理人の手には、

洗濯されしっかりとアイロンを掛けられ、のりづけまでされた藍色の風呂敷が、

透明な袋に入れられ、まるで新品のような状態で持たれていた。

は一瞬、それがなんなのか計り兼ねて、差し出されたものをぽかんと見ていたが、

しばらくするとようやく自分が渡した引越蕎麦を包んでいた風呂敷だと理解して、

弾かれたように笑った。


「すごい。わからなかった。

 こんなに綺麗になって返ってくるなんて」


笑い声にびくっとしたが、仙石は早く受け取ってほしそうに、

再度風呂敷を差し出す素振りを見せる。


「あ…、笑ってごめんなさい。

 わざわざ返してくださるなんて。

 優しいんですね」

「べつに優しいわけじゃ…」

「優しいですよ」


――そういうもんなのか?

いぶかしげに首を傾げた仙石と、の目が初めてしっかりと合った。

一度目が合うと、反らすのはとても困難だった。

なぜなら彼女の瞳はきらきらくるくる回る万華鏡のように魅力的で、目が剥がせない。

まるで時が止まったような気さえした。

はた、と仙石が我に返る。


「……お蕎麦、美味しかったです」

「仙石さん」

「は、はい」

「煮物って、」

「へ?」

「お好きですか」

「え、ええまあ…」


は扉を押さえたまま身体を引くと「入ってください」と言った。


「つい作りすぎちゃうんですよ。

 でも、春なのにこの暑さじゃないですか。

 ご迷惑じゃなかったら、少しもらってくださいませんか」

「え、あ」


どもっている間に、が仙石を玄関に招き入れる。

女性の一人暮らしでちょっと無防備すぎやしないか!

と怒鳴ってやりたい気持ちになったが、ぐっとこらえた。


「散らかってますが、上がってください」

「い、いえ。ここで…」

「管理人さんなのに」

「本当にここで…」


手を身体の前に揃えて、少し緊張した面持ちで立ち尽くす仙石を見て、

はなんだか無性に微笑ましく思った。

タッパーに煮物を詰めながら、少し声を張り上げて仙石に話しかける。


「仙石さんは、お料理なさるんですか」


仙石も、離れたに聞こえるように声を張り上げる。


「はい…自分で作る方が、性に合ってまして」


その方が“危険”も少ないわけで。

奥からが戻ってきた。

手元のタッパーにはたっぷりの煮物と、

それからおまけにもうひとつタッパーが添えられていた。

たけのこご飯である。


「ご迷惑じゃなければ、これも」

「…たけのこご飯は大好きです」


つい本音が出てしまった。


「良かった。あ、たけのこのおみおつけもありますよ」

「……」

「……食べて行きません?」

「それはさすがにちょっと…」

「あ――ごめんなさい。

 まあ…あんまり良くないですよね」

「ええ。ええ。良くないですよ」

「仙石さんの彼女さんに、怒られちゃいますもんね」

「…そういった人は居ませんが、そういう問題ではなく」


――なんなんだこのやりとりは。

の顔がぱっと明るくなった。


「もし仙石さんがお嫌でなければ、

 一緒に食べてくれませんか。

 たまにはひとりぼっちじゃなくて、

 誰かとご飯が食べたいのです」


それはとても素直な頼みに聞こえた。

皆そうなのだろう。

だがそれを素直に口にできる輩が、はたしてどれだけ居るものか…。


「……その前にひとつ確認しておきたいことが、」

「はい」

さんって、あのさんですか。

 “うさぎのユーリ”とか“おりがみものがたり”を

 描かれてらっしゃる」


は立ち尽くしている。

ぽかんとしているのか、引かれたのか。


「……ご存知なんですか」

「というと、やはりご本人」

「ええ、ええそうです…!

 っていうか、仙石さん、“うさぎのユーリ”って、

 まさかそんな初期の作品までご存知なんて…」

「ええ。大好きなんです」

「出版社が潰れて、とっくに絶版してますよ」

「持ってます」


は頬に手を当てると、ふるふると首を振った。

信じられない、とでも言うように。

まるで夢でも見ているような気がした。


「ねえ仙石さん。だったら尚更上がってください。

 ささやかですが、おもてなしさせてくださいませんか」


仙石、ずるりとバランスを崩す。


「なんでそうなるんですか!

 気持ちが悪いでしょうが。

 こんな良い歳した独身中年男が、

 あなたの作品を全部持っているファンで、

 まさかの管理人で、その上お部屋に上がり込むなんて…!

 さん、どうか冷静になってください」

「原画、お見せしますから…、ね?」

「う…」


どうやらこの作戦は不発に終わりそうだ。

は真面目な顔をして立っていた。


「ねえ仙石さん。

 これもなにかのご縁だと思うのです。

 まさか“うさぎのユーリ”を知っている方がいるなんて…

 私自身、まだ信じられない。

 思い入れのある絵本なんです。

 こんなに嬉しいこと、そうあることじゃないです。

 お礼をさせてくださいませんか」





この男、手料理とは人の思念がこめられた物だから、

触れるのも口にするのも、基本的には苦手である。

自炊が基本の仙石には、かなりのストレスだと思われた。

が、食べた瞬間、今まで感じた事の無い気持ちの襲われる。

炊きたてのたけのこご飯。

だしのよく利いたたけのこのお味噌汁。

ほくほくの煮物。

ふっくら煮付けられた甘辛いカレイ。

即席で作られたシーザーサラダ。

ほっこりと、心の強ばりがほぐれてゆく感じがしたのだ。

それは大きな驚きだった。

新鮮すぎる驚きだった。

顔の緊張がゆるむ。


「おいしい…」


自然と笑みがこぼれる。

それを見て、がまた嬉しそうに微笑む。

にこにこと笑みをかわす。

そんな食卓だった。

奇妙な関係に思えたが、仙石とは幸せの存在を感じていた。
















大きな仕事机の上に、描きかけの原画が広げてあった。

一匹のねずみが、綿帽子を抱えて走っている。

――手袋を持ってこれば良かった。

しまった、と思った。

極力、作品には触れないようにしよう。

仙石は手をしっかりと自分の後ろに重ねて結んだ。

引越したばかりなのに、の部屋はもうほとんど片付いていた。

原画の置き場所もきっちり把握できているらしく、“うさぎのユーリ”の原画を出してきた。


「僕が触れるのは、さ、さすがに緊張します…、

 さんが広げて見せてくれますか」


はいいですよ、と笑った。

ぱらり。ぱらり。

ダイニングテーブルの上にも、見やすいように広げてくれた。

幾重にも書き込まれた線や絵の具を追うように、

仙石は目を輝かせながら、画面すれすれまで顔を近づけた。

が奥から一体の小さなぬいぐるみを持ってきて、机の上に置いた。

ボロボロだったが、それは確かに“うさぎのユーリ”だった。


「わあ…!ユーリだ…!」


仙石の目がさらに輝きだす。


「ユーリは小さいころ母が作ってくれたんです。

 絵本のモデルになった子でね。

 いまだに一緒に寝てるんです。お恥ずかしい」

「恥ずかしくなんかありませんっ!」


きっぱりと言い切った仙石は本気だった。

だがはそれを聞いて、きょとんとしながら、くすくす笑った。


「やっぱり優しい」

「あのねぇ…だからそれは優しいんじゃなくて。

 なんたって、あの、“うさぎのユーリ”ですからね。

 一緒に眠るのは人として当然ですよ」


呆れたような困ったような表情で、当然のことだと言わんばかりの仙石を見ていると、

の心はさらに温かくなった。


「そういえば……仙石さんって、“あの人”に似てますよね」


どきり、と仙石の背筋が冷える。


「あの、個性的な芸風の。

 わたし、お笑いってあまり見ないのですが、あれは好きだったんですよね」


仙石は慌てふためいている。


「なんだっけ――物に触れて記憶を見ちゃう2人組……マ、マ、」


慌てふためきすぎて、挙動がおかしい。

変な汗が吹き出る。

動揺ついでにテーブルの隅っこに足をぶつけた。

置かれたぬいぐるみのユーリがころりと落ちる。

仙石は反射的に手を伸ばしていた。

――何してる。こういうものには絶対に――。

絶対に、触れちゃ、いけないのに。



「…――マイティーズ」



仙石みずから、その名を明かしていた。

無駄な抵抗はしないに限る。

だが、そう言いながら、その掌には小さなうさぎのぬいぐるみユーリが包まれていた。

仙石の表情で、正体が理解った。

彼は今にも泣き出しそうな顔をしていた。

ひどく辛そうな、怒りを込めたような、泣き出しそうな顔で、を見た。

の表情が変わる。

震えている。

――駄目だ。

仙石は手を伸ばして、の身体を支えた。


「ごめん――ごめんよ」


は首を振る。

そのまま抱えられるようにして、泣き崩れてしまった。

仙石の腕の中で、は――“うさぎのユーリ”は震えていた。

ぺたりと尻をついて、泣いているひとを支えてやる。

仙石も、泣き出したかった。

そう思うと、なんだかぽろぽろと涙があふれてきた。

めそめそ。しくしく。

わあん。ええん。

ぎゅう、と腕の中のひとを抱きしめて、抱きしめられたひとは、

それに強く抱きついて、ふたりはわんわん、泣いた。
















――ユーリはじぶんのお父さんとお母さんを知りませんでした。





そんな言葉から、この話は始まる。

続けよう。





――ユーリはじぶんがだれで、なにものなのか知るために、旅に出ました。

たったひとりで、旅に出ました。





……











とても小さなユーリが、絵本の中で、一生懸命に旅を続けてゆく姿が、

仙石の胸にたまらなく切なく響いた。

染み渡った。

その頃、まだ清掃のアルバイトをして生計を立てていた。

通りかかった絵本の専門店で、くたりと、けれどもふわふわとしたうさぎらしき毛玉が、

いたいけに旅をする絵本をみつけた。

ささやかな癒しが欲しかったのかもしれない。

持ち帰るのはひとりぼっちの四畳半。

無性に心を打たれて、仙石はひっそりと泣いた。

――“うさぎのユーリ”に、救われる想いがした。











“本物のユーリ”はのすべてを知っている。

つらいとき、かなしいとき、うれしいとき、すべてを知っている。

十年、二十年、毎晩が抱きしめて眠っているのだから、当然のことだ。

だから仙石は見てしまった。

痛いほどの記憶を見てしまった。

見られたくない過去だとすぐにわかるほどに。

大好きなママが作ってくれたうさぎのぬいぐるみ。

ママは――赤ちゃんとユーリを泣きながら捨てました。

血のつながらない養父と養母。

育ての母の死――。

手をあげる養父、日に日にエスカレートしてゆく。

ひとりぼっち。ひとりぼっち。ひとりぼっち。

痛い。痛い。痛い。

引き裂かれる。喉がかれる。心が死んでしまう。

たすけて、ユーリ。たすけて、ママ。

問題が明るみになる。

大金の入った通帳を投げつけられる。

家を追い出される。

高校へ進学する。絵を学ぶ。

大学へ進学する。どんなときでも笑っていよう。

友達ができる。

絵本を描く。コンクールに出す。それの繰り返し。

ユーリだけが、ひみつを知る友達。

そのひみつを込めて、新しい話を描く。

目に留まる。出版される。

書店に本が並ぶ。

がんばった。

嬉しい。

ありがとう。

ユーリがいるから、ひとりじゃないよ。

いっしょうけんめい、生きてるよ。

わたしはもう、だいじょうぶだよ。

生んでくれて、ありがとう。

――ママ。

















「……僕も、孤児なんだ…」


泣き疲れたふたりは、ぐったりと床に座ったままだった。

ぐず、ぐず、とまだどこか鼻を鳴らしながら、仙石は自分の過去を話し始めた。



過去がないこと。

引き取られた家には愛情がなかったこと。

人の悪意を知ったこと。

家を飛び出したこと。

身寄りが誰もいないこと。


「僕には子供のころの記憶がないんだ…」


もまた、鼻をぐず、ぐず、と鳴らしていた。

とてもまっすぐな目で、仙石の顔を見つめている。

真剣そのものだった。


「…それはとても、」


そっと手が伸ばされる。

仙石の頭の上に、ふわりと熱の感触が伝わる。


「…つらいよね」


撫でられた。

とても優しく。

いたわりの熱だった。


「なんでだ…。

 君は…君はなぜそんなに…人に優しくできるんだ…?」


――君だって同じくらい。

――いや違う。きっと君の方が、痛みを伴う。つらい。

――それなのに。

は、笑った。

胸が締め付けられるほど、美しく、儚く。


「仙石さん――。

 私の記憶をみてくれて、ありがとう。

 そうじゃなければ、たぶん。

 一生誰にも、この生き方を理解してもらえなかった」


の瞳をまっすぐ見つめる仙石のまなじりから、また、ぽろりと雫が落ちる。


「――僕は、自分の記憶が…過去が欲しいんだ…、」


ぽろり。ぽろり。


華奢な両手がのびてきて、なだらかな胸に、優しく仙石の頭を包み込む。


「――‘思い出せない’ってことは、

 ‘知らなくていい’ってことなんだと思います」

「うん…僕も、今は――そうおもう」


がティッシュをたぐり寄せ、仙石の鼻をそっとつまむ。

この男、素直にブーンと鼻をかんだ。

――これからの記憶があればいいのではないか。

最近、ふとそう思うようになったのだ。

丸山竜司、あの性悪が。

峠 久美子、あのお節介姐さんが。

秋山亜美、あの音色が。

そして――沢村雪絵、あの慈しみが。

教えてくれた。

大きな転機を与えてくれた。

それはささやかで、とても切ない、美しい思い出――。

“これから”の人生を、ほんの少しだけ、生きやすくしてくれた。

――ありがとう。僕らは、たぶんもう、ひとりじゃない。





















さん。あんまり根を詰めると、“ふわふわ”にならないよ」


コーヒーの入ったマグカップを手渡すのは仙石である。

うん、と背伸びをして、はコーヒーに口を付けて、美味しい。

そう呟いて、はにかんだ。


「“ふわふわ”、そろそろ補充しに行かなくちゃ」


ふわふわ、というのは、の描く愛らしい動物たちのことで、

ふっくらとして、まるで雲のような綿毛の絵柄のことを、

仙石は“ふわふわ”と呼んでいた。


「それなら、ちょっと休憩しよう。さん」

「うん。今日はお散歩がいいな――和彦さん」


ぎゅう、と抱きつく。

するともっと強い力で、

ぎゅう、と抱きしめ返される。

コーヒーの香りがする。

とても幸せな香りがする。

幸せというものは、なんだか無性にこそばゆい。

むずむずとして、愛らしく、やわらかい。

の頭に帽子をかぶせて、仙石は愛しげに微笑んだ。

手を繋いで、新緑の季節に飛び出す。

ふたり、並んで歩けば、世界はこんなにも鮮やかに回りだす。

のんびり、ゆっくり、けれども揺るぎなく。

なで肩男と、鼻歌女。

眩しいほどに輝く緑色のアーチをくぐりながら、

ふたりは互いの手を、ふたたび強く、握り返した。


















―――――――――――――――――

脚本おもしろいのに、映画としてはちょっとお固くなってしまった気がする…うーん残念無念。

そんな某映画を思って…。

仙石さんなMNSIさんは、とってもかわいかったです。

魔法みたいに運命の糸に引かれ合う出会いがあっても、キュートかなあと。

冒頭、無駄に獏風にして遊んでみました。

いつもお世話になっている李さんへ。

愛を込めて!

20160508 呱々音