小雪の振る2月の寒空の下、砂利の混じった雪道に膝をつき、

額をすりつける女はそのか細い喉を震わせながら必死に声を張り上げた。


「八雲師匠にお願いがあって参りました」


雪さえ見劣りするほど、やけに白いうなじだ。

後れ毛が目に付く。


「良いお嬢さんが膝なんかついて…着物が台無しじゃないかェ。

 あーあー肩もびしょ濡れだ。

 いいから。お上ンなさい。

 ――松田さん、熱い茶淹れてやっとくれ」


はい、と人柄の良さを滲ませて、ささ、どうぞと女を促す。

背に声を聞きながら、先に家の中に上がってしまうと、

振り返った玄関の向こうから雪の中を静々とやってくる伏し目がちの女が、

その一瞬、無性に愛おしくおもえた。

美しいじゃないか。

あれはついさっき高座から見た着物の柄だ。

一番後ろの隅で隠れるように見守っていた別嬪さんは、初めて見た顔だ。

楽な着流しに着替えて居間へ戻れば、やはりうなじの白さが目に眩しい女が、

松田さんの淹れた濃茶をそそと啜っていた。

ほう、と溜息が漏れるのを待ってから声をかけてやる。


「ちィとは温まったかェ」


小言っぽく聞こえるのは常だから、彼女が萎縮してしまうのが手に取るようにわかった。

どこか怯えたようなのに、芯の部分で変に物怖じしていない風体が妙に引っかかって、

雪も手伝ってつい家に上げてしまった。


「上げてくだすって…ありがとうございました。

 わたくし、と申します」

「そいでさんとやら。一体アタシに何の用だね」


はい…と言いながら考えるような素振りでほんの少し首を傾げた角度が、またやけに綺麗で、

お座敷の芸事でも仕込んでやったら栄えるだろうなんて雑念が脳裏に浮かんだ。


「“助六”――」


炭をつまんでいた火箸をさくっと音を立てて灰に突き刺した。

反射的に嫌な顔を作る。睨む。

女は続ける。


「“助六”に最もお詳しいのが八雲師匠なのだと、人から教えてもらいました。

 わたくしは、どうも…“助六”の娘、らしいのです、」


言いすくんだ声は再び震え、本人も半信半疑なのだと察してやるには十分だった。

興味を失ったかのように座卓に肘をつくと、庭の椿に目をやりながら、

ふか、とたばこの煙を2度3度と吐き出して、静寂を布いた。


(あの馬鹿)


うちにはただでさえ、すでに助六とみよ吉の間に生まれた

小夏という因縁の落とし子が居るのだ。

先代に入門した弟子入りの初日に出会った時分から、

兄弟分と思って助六の世話を焼いてきたけれど、

死んでからもまだ苦労を掛けるってんだから憎たらしい。


「失礼ですがね。さん、母君様は、何を…」

「深川で、“島影”という名で芸妓をしておりました」


身なりのいい上客に連れてこられたボロ纏いの助六に、

傾城島影はコロッと惚れちまったという。

一夜かそこらの逢瀬で身重になって、呆気なく芸妓を揚がることになった。

腹ぼてではお座敷には上がれないが、

主人の計らいで女中仕事のようなことをやってしのいでなんとか産んだ。

生めば助六が自分のものになるような気がしたからだ。

島影は住み込みの身だから、今すぐにでも助六と一緒になってここを出たいと思っていた。

だがどうにも助六の反応がにぶい。

幸いは、生まれてこの方ほとんど手の掛からない大人しい乳飲み子だったから、

主人や女将さんが目を瞑って置いてくれた。

煮え切らない助六に、見世の主人が詰め寄って

どういう腹か知らねえがと捲し立ててもみたのだが、一向に効果がない。

遊びに、酒に、女――何より落語に夢中な助六の足が、次第に遠のくようになる。

母・島影は人知れず心を病んで行った。

すると助六は、ぱったり来なくなった。

が十になる頃、助六は落語界から破門されたのだと

店に出入りする客づてに耳にした。

しばらくして、向島のみよ吉という人との間に子を儲けて、夫婦になったという。

母は深川の冷たい水に身を投げて命を絶った。

はひとりぼっちになった。


「さぞ――無念だったろうに…」

「病んでも母は立派な花柳界の女でしたから、

 決して寄席には押し掛けなかったそうです。

 血相変えて旦さんに縋り付いて顔に泥ぬるなんざ、女の恥だって」


そんなこと、ひとっつも知らなかった。

は母の実家へ返された。

1日がかりで辿り着く山の中だ。

初めて会う祖母はとっくに耄碌した婆だった。

祖母は2年と保たずに亡くなったが、家は残った。

は地元の小さな料亭に女中として入り、あっという間に3年経ち、

4年経つ頃には完璧に仕事を覚え、店の内外ともに器量良しと評判だった。

人手が足りないときは特に重宝され、頼まれさえすれば割烹の手伝いだって難なくこなした。

そういう真っ直ぐな性格が人には気持ちよくうつった。

母の血がうずくのだろう。はますます綺麗になっていく。

だがある時、料亭の若旦那に納屋で手篭めにされかけたのがきっかけで、

は逃げるように店を辞めた。

翌日には家を引き払うと決めて、わずかばかりの銭を懐に結局東京へ戻って来た。

母娘ともども世話になった旧知深川の主人を再び訪ね、

女中として置いてもらうことになった。

ここでもは立派な女中として繊細な仕事を勤め上げてみせた。

面倒な客に絡まれたり、見合いをすすめられることもしばしばあったが、

田舎で手篭めにされかけて以来、どうにも男という生き物がおそろしかった。

華があるというのになるべく目立たぬように努めるを憐れに思った主人が、

取っておいたという島影の形見の糸菊柄の反物を渡してやり

「これで新しい着物ォ仕立ててもらっつこい。女中頭としてしっかりおやりよ」

と昇格で計らってくれた。

戦後の赤線を期に料亭へ鞍替えしたこの店も、

継ぐ者が居ないのでいずれ無くなるのだと言う。

買い取ってやろうかという常連客もいたが、主人と女将はふたりが亡くなったら

店は仕舞いにするともとより決めているらしかった。

女将さんが先立ち、後を追うように主人も亡くなった。

世話になった人たちと母の思い出とともに、店も終わった。

立派に葬式を終え、辺りを見渡せば、皆それぞれ次の人生へ向かわねばなるまい。

はまた、ひとりぼっちになった。

多少の退職金と、島影のおさがりの着物を身にまとって、

世間に放り出されたとき、最初に思い浮かんだのが「助六」の二文字だった。


「父…と聞かされてきましたが、わたしにはよくわかりません。

 会った記憶がほとんどないんです。

 それが本当でも嘘でもいいんです。

 ただ、なんで“助六”サンがうちに寄りつこうとしなかったのか、ずっと気に掛かっていて…。

 もしかしたら…“助六”サンは母のことを疑っていたんじゃないかって」


ふー、と長い煙を吐き出す。


「“子別れ”かェ」

「そういうお噺があるんですか」


口端でそっと微笑ってやる。

――なるほど。

あの情に篤い男は女にほだされやすいが、それ以上に面倒事から目を背けたがる。

遠ざける。そういうきらいがある。


(だがそれにしちゃァ妙だね)


安くて太い人情が売りみたいな男だから、

子が出来たとなりゃ坊や坊やと耳打ちのひとつもしてきそうなものだが。


「馴染みのお客さんが、“助六”について知りたきゃあ

 “菊比古”サンを頼るしかないって教えてくれたんです」


菊比古――八代目有楽亭八雲を襲名する前の高座名である。

懐かしいじゃないか。

菊さん、菊サン、とみんなに呼ばれるのが好きだった。

一生菊比古でも好いってくらい、肌馴染みが良かった。

八雲の名跡は、助六に継いで欲しかった。

だがあいつは先に逝ってしまった。

止むに止まれず八雲を名乗った。


(アタシだってこんな名前――)


「――で、アタシに何の用があるってんだェ」


は座布団から下りると、三つ指をついて、畳に額を擦り付けた。


「わたくしを先生のお側に置いてください。

 先生の知ってらっしゃる“助六”の面影が、

 私の中にあるのかどうか、見極めて頂きたいのです。

 もう先生のお力に頼るしかないんです」


そういうことか。

この娘の孤独が手に取るように諒解った。

はあ、と大きな溜息を吐く。

そうでもしないとこの馬鹿らしく大それた提案には見合わない気がした。

新しいたばこに炭火を移しながら、


「どうせ他に行く所もないんだろェ」


と問うと、は小さく頷いた。

やけに白いったらない、うなじが妙に癇に障る。

手を伸ばしたくなる。

だがもちろんそうはしない。


「…そういやお嬢さん、今日の寄席はどうだったェ」


ここでようやく、女の顔色がほんのり朱色に緩んだ。


「胸を、打たれました」

「へェ」

「静かで、孤独で、美しかった」


ふっくらした歓びが胸にわく。


(わかるのかェ)


折れてみるのも悪かねェ。

どうもいい調子で気まぐれの虫が騒ぐじゃないか。


「好きにしたらいいさ」


は目を見開き固まっていたが、どうにか現実を受け入れると、再び畳に頭をついて静かに泣いていた。










「そういうこって松田さん。

 上手いことさんと仕事を分けてみてもらえないかェ」

「はい。そういうことならね、私も喜んで協力させて頂きますよ」


付きっきりで世話をみてくれる松田さんに、週に1日か2日、

休みを取ってもらって、それ以外はに付き人を任せてみることにした。

住み込みだから基本的にはが朝昼晩と食事を請け負うことになり、

松田さんは先生のお世話に付きっきりになってもらうのはどうかという話になったらしい。

あまりガチガチに決めてもつまらないので、

基本的には今まで長年勝手を任されてきた松田さんの指示を仰ぐ見習い扱いがよいと

自身がかたくなに譲らなかった。

人の良い松田さんなんかは却って恐縮していたが、

先生の助けになる人が増えるのは心強いですようと嬉しそうに笑った。

跳ねっ返りの小夏は家に帰って来ない日もあるし、

それこそ松田さんに甘やかされて育ったものだから、

こういう日常の炊事ごとには心底疎い。

覚えさせればいいのだろうが、まだまだ青く、そして幼い。

が異母兄弟かもしれないということは、小夏には伏せた。

無闇に騒ぎ立てたところでそれにはなんの意味もないからだ。

は小夏が助六とみよ吉の忘れ形見ともちろん知っていたが、

お門違いな嫉妬の火などはどうも燃えていないようだった。

妹がいたらこんな感じなのだろう…という楽しみを見出したのかもしれない。

の作る食事は、料亭女中をしていたこともあってすうっと舌に馴染んだ。


「こりゃ驚いたね」


味噌汁に口をつけた途端、思わず漏れた一言だった。

最近じゃを見ると心が穏やかになる。

静寂が好きだ。彼女もそれを愛している。

そういう美しい波長を無闇に乱さない女に初めて会った。


さん」

「はい」


頬がゆるむ。


「とってもおいしいよ」


そんな他愛ない一言に、は幸せそうに笑う。

都合よくも夫婦のような錯覚を覚えた。











「そういやお前さん、お座敷に上がったこたあるのかェ」


は首を振った。

聞けば一度もないという。


「綺麗なお姉さんたちが、どっかでずっと羨ましくって。

 母のような器量の良さがあれば、私も芸妓になれたんでしょうが、

 どうも殿方というものの側にいるのが怖くって」

「アタシも男ですけどね」


刺を添えてそう返していた。

大人げなく向きになってみると、案外こういうのも悪くない。

は拗ねる姿に慌てている。


「八雲先生は別です、女に無理強いをしたり、

 怖い思いをさせたりしないんですから。

 先生、ごめんなさい。

 どうかいじわるを言わないでください」

「わかってますよ。冗談です」


楽しそうな声、悪戯っぽくからかう満足そうな表情を見て、

が胸を撫で下ろすのがわかる。


(この女は良い歳をしてひどく純なのだ)


移動の車内で、ぽつぽつと交わす会話がこんなに楽なもんかとぼんやり思う。


「お姉さんたちのお三味線に、ずっと憧れてました」

「そんならアタシが教えてやろう。

 こういうのはこっちの世界の嗜みみたいなもんだから。

 覚えて損するこたないよ」


その日から日々の雑事の合間を縫って、

に三味線と唄を教えてやるのが新たな楽しみになった。

どうせならと長唄会や、歌舞伎も観せてやった。

まあ三味はともかく、柄にもなく唄は派手好きなのか

“勧進帳”や“京鹿子娘道明寺”を掛けようとするのにはさすがに閉口したが…。

踊りは天性の素質があってか、すぐに型を飲み込んでしまった。

まだまだ若輩の猿真似ではあるけれど、

持ち前の色気と初々しさが相まって、なんとも言えない魅力がある。

こういう事があるから、芸事の世界はおもしろい。

の踊りは実に好い。品が良くて色気がある。

柳しまのお座敷で試しに使ってもらうのだって悪くないくらいだ。

もう確信していた。

は助六の娘だ。

容姿は母親の生き写し。

一見すれば助六とは似ても似つかない。

だが肌でわかる。

居心地の良さがそう言っている。

しかしまだそれを口にはしてやらなかった。

それを告げてしまったら、を側に置く生活が呆気なく終わってしまう気がしたから。

まだはっきりと確信を持てないという言い訳に無理やり甘えて、

この妙に心地のよい女の正体を、もっと知ってみたいと思っていた。













「――い、せんせい、先生!」


ひどいうなされ方をしていたんだろう。

浴衣のまま駆け寄ってきたは、泣いていた。

まだ夢か――いや、どっちにしたって悪夢には違いない。

あの亡霊たちの呪いは、まだ罪を許してくれない。

一生掛かっても許されない。

償い続けるしかないのだ。


(アタシは――アタシは――)


「信さん、苦しいよ。助けとくれよ。

 アタシはもう、こんな重てェ荷物ぜんッぶおろして、

 楽になりてェんだ。

 殺すならさっさとしてくれよ。早く。ああ、そうさ、辛ェ。

 名前と過去とォ全ッ部背負って、早く心中しちまいたいんだ」


助六の亡霊につかみかかる。

わなわなと震える手で力の限りしがみつく。

すがりつく。

嗚咽する。

いつもそうだ。

責めてみても最後は懺悔に変わる。


「ごめんよ――ごめんよ信さん、アタシが悪かったよ――アタシが――」


――せんせい。

(いい声だ)

――せんせい。

(もっと聞かせとくれ)


「八雲先生!」

「……っ、」


助六と見紛うてしがみついていた身体がのものだと諒解ったが、構わなかった。

より一層きつく抱きしめた。

やわらかく良い匂いのする生き物。

もう長いこと忘れていた温もり。


「せん、せ」


泣いていた。

それが脅えからくる涙というのではなくて、

私を労っての涙だということは見ずともわかった。

やさしい手つきで、けれども少し躊躇いながら、

弱った老いぼれの身体を抱きしめ返して泣いていた。


「先生、もう、もういいんです。

 助六の掛けた呪は、あンまりにも強すぎます。

 わたしは恨みますよ。助六を。

 なんでこんなに縛り上げて、嬲るような真似をするんです。

 先生はこんなにも苦しんでらっしゃる。

 自分に罰を与えてらっしゃる。

 わたしは、助六と同罪です。

 助六の影を、あなたに求めてしまった。

 許してください、せんせ、ごめんなさい、わたし、ごめんなさい」

「お前さんは恨んじゃいけないよ」


さらに抱き寄せて、耳元で諭す。


「たったひとりのお父っつぁんだ。

 恨んじゃいけない。

 そんなことしたら、お前さんをこんなに良い子に育ててくれた

 島影さんが哀しむよ」

「せんせ、」

「…


は八雲の胸で泣いた。

熱い雫が川になって滝になって、やっと海に還る。

そしてそれは、いくつかの真実を告げてしまったようなものだった。

想いが通じ合っている。痛いほどに。

なりふり構わず、の唇を塞いだ。

はなんの抵抗もなく、それを受け入れて、必死に応えてくる。

角度を変え、舌をからませ、口内のあらゆる粘膜を舐め回す。

唇を甘噛みして、激しく、何度も何度も互いを求め合って、

苦しげに酸素を求める呼吸が、なんとも煽情的で胸がどくりと脈を打つ。

手が互いの浴衣の上を這う。

ずっと欲しかった。

喉から手がでるほどに。

匂い立つ白いうなじを鼻先で追えば、の口からしっとりとした甘い声が漏れる。

どちらともなく身体がくずおれ、床からはみ出し畳に女の黒々とした髪が散らばる。

浴衣の裾をたくし上げ、太ももをなで上げながら足の付け根に指を這わす。

そこはひどく濡れていた。

少し掻き回すだけで湿り気を帯びたやらしい音が響く。

組み敷かれた身体の下で、羞恥と快感に身をよじっている。


「…そんなにアタシがいいのかェ」


吐息で語りかける。

それだけで背中がくっと持ちあがる。

足を開かせれば、そこは欲しい欲しいとひくつきながら涙を流し、

まるで洪水にように太ももまで濡らして、たった一人の男を求めていた。

顔を近づけると必死に足を閉じようとする。


「開きなさい」


命じると素直にゆるゆると許してしまうのだがら愛おしい。

顔を埋め、舌先でつつき、舐め上げ、弄び、めっぽう強く吸ってやると

一層良い声を上げて泣いた。


「せんせ、かんに、ン、後生、ですから、あ、もう、あ、堪忍して」

「ひやなこったェ」


こんなに甘くて美味しいものを、ここで止めろというのが無理ってもんだ。

聞き分けてもらわなくちゃ。

指が一本入る。ゆっくりと行来し、熱く震える内壁を慣らしてやる。

二本入れる。焦らすようにくいっと指で圧迫し

じくじくと煽ってやると、さらにぎゅっと吸い上げられる。

ぬめる場所に三本入れる。

今度はまた湛然に優しく愛撫してやる。

たまに芽に触れてやると、びくんと身体を跳ねさせるので、

みだらな欲求を満たすその姿がたまらなくて、言葉でも翻弄してやりたくなる。


「そんなに物欲しそうな目で男を見るんじゃないよ」


普段のからは想像できないほど乱れる姿。

あらわになって息苦しそうに張り上がった乳房を口に含むと、

悦とした声がふらふらと漏れ、呼吸がさらに荒くなる。

の手が股をまさぐり嫌というほど主張する雄をさぐりあてた。

これだけ乱れておいて、それでも怯えたような初々しい手付きなのだから、

やはりどこかで男を畏れているのだろう。

怖かろう――でも、これもそう悪いもんじゃないんだよ。


「っ、そろそろアタシも限界だ」

「せんせ、」

「その“先生”ってのは頼むからやめとくれ――

 ただでさえ後ろめたいってのに、頭がおかしくなりそうだ」

「なんて、呼べば」

「そうさね――」


(一番、好いた名が好い)


「――菊比古と、呼んでくれ」


腰をぐうっと押し進める。

とにかくきつい――痛みがあるのだろうか。

気になって顔を覗き込むが、そんなものまで快楽に変わっているのか、

は涙を流しながら、もっともっとと身をよじる。


「きくひこ、さ、菊、サン、きく、きくさン」


嗚呼。

女の口から出る名前ってのは、どうしてこんなに魔力があるんだ。

の声が愛しくて愛しくてたまらない。

喘ぎながら必死に愛しい男の名前を呼ぶ。

腰の動きが好いようで、嬉しくなるくらいよがっている。

思わずこっちも切ない声が漏れる。

互いを擦り付け合って、唇を吸い合って、

もうなにもかもぐちゃぐちゃになって、溶け合って、罪の意識を胸にしまい込んで。


「きくさん、あ、あつい――あ、あっ」


唇を塞いで、濃いものを惜しみなく注ぎ込んだ。

身体の下で快感に痙攣する姿を思うと、これきりでは終わりそうになかった。








「こういうことが、アタシにも出来たんだね」


まさか自分が、こんなにも溺れるように女を抱く日が来るとは夢にも思わなかった。

ましてやこんな歳になって。

縁側で風に吹かれながら、そんなことを口にした。

すこしはだけた浴衣の裾を、が直してくれた。

怖ず怖ずと手を伸ばす仕草は、月も恥じらうほどに、美しい。愛らしい。


や――おいで」


呼んでやると犬のように、胸にすがってくる。

あたたかい。

このままいつまでもまどろんでいたくなる。


「男が怖いという割にァ、随分濡れていたねェ」


恥に顔を隠してしまう。

いじわるの虫が騒ぐ。

そっと耳元に口を這わせて、吐息で囁く。


「自分で触るのはそんなに好いかェ」


顔が真っ赤になっているのがこの暗がりでさえよくわかる。

羞恥が極まっては泣いていた。

頬を伝う雨だれを舌で舐めてやると、眉根を垂らして熱っぽい目で見つめてくる。


「本当に」


自分では気付いていないであろうその表情は、どうにもいやらしくて、背筋がぞくぞくする。


「――かわいい子だよ」


なだれ込むように、唇を奪った。

月の光を受けて震える長い睫毛がきらきらと輝いて見えた。








は八雲のものになったのだ。

こんなにも愛おしい存在。

日を追うごとに、を自分の半身か片割れか、そんな風に思う自分の存在があった。

片時も離れない――彼女はきっと自分の元を去らない。

さらに不思議なことに、そこに“助六”の存在を感じずに居られる日もしばしばだった。

それはふたりにとってとても好い兆しに思えた。

だから伝えた。


。お前さんは間違いなく――“助六”の子ですよ」


は瞳いっぱいに涙を溜めながら、何も言わず、深々と頭を下げた。


「先生――、ありがとう、ございます」


そう漏らすだけで精一杯だった。

その言葉だけで充分だった。










しばらくして落ち着いた頃、柳しまのお栄さんの齎した情報で、

物事はあっけなく片付くこととなった。

なんてことはない。

助六は脅されていたのだ。

島影に入れ籠んでいた金持ちの旦さんに借金のあった助六は、

それをすべて帳消しにする代わりに、二度と島影と娘に近づくなと言われていた。

約束を破れば影島と、お前のお師匠も無事ではない、と。

そうとなれば、忘れてやるしか無い。

娘の顔を忘れてしまうことこそ、守ることになるのだから。

助六の生活態度は一層荒れた。

この頃、件のご贔屓もそう時間を空けずに病に倒れ、

長い入院生活を送った果てに亡くなった。

遣る瀬ない悲しみの連鎖で人生は繋がって行くのだ。

すべて聞き終えたは、お栄さんに向かって深々と頭を下げた。

またあの時と同じだ。

その白すぎるうなじが、小刻みに震えている。

身体の芯が切なくうずいて、今すぐにでもその身体をかき抱いて、

口付けて、慰めてやりたかった。








帰りの車中でも、どちらも何も言わなかった。

それぞれが遠いところへ想いを馳せていた。

助六は落語に捨てられた。

みよ吉も落語に愛する男を奪われた。

寄り添って、落ちて、堕ちて。

破滅を止めてやりたくて、迎えにいった。

また一緒に落語をやる楽しさを思い出してほしかった。

小夏の笑顔を見ると、ますます強く助六は落語をやるべきだと説いた。

助六はいつか見捨てた母と娘への償いのように、みよ吉と一緒になったんだろうか。

だとしたらあまりにも切なすぎる。

取り残された亡霊たちが、なぜだか因果に引き寄せられ、

こうして八雲の名のもとに集うのだ。

哀しいまでに手を取り合い、生きている。

松田さんが帰って、ふたりで軽く蕎麦を食べた。

湯を浴び終わる頃には、時計は1時を回っていた。

が布団を敷く姿をぼんやり眺めて、先刻感じていた想いがまた顔を出す。


。今夜はここでお眠んなさい」

「はい」


泣いていた。

憑き物がおちていく。

あやすように胸に抱きしめて、とんとん、と背中を叩いてやる。


「――誰も悪くなかったんですね」

「どうだかねェ――やるせないもんだね…人生なんてのは」

「菊比古さん、」

さん」


ぐっと力強く食いしばった歯の奥から、絞り出すように言葉が漏れた。


「つらかった」


泣きじゃくって震える愛しいひとを、ぎゅうと強く抱きしめた。


「血が騒ぐんです。わたしの中の、助六の血が。

 菊比古さんに惹かれて、焦がれて、胸が苦しいんだ」

「――それでいいんですよ」


“菊比古”がやさしく笑う。

因果の終わりだ。

いやもしかしたら終わりなど存在しないのかもしれない。

だがしかし、ようやっとの人生にひとつの区切りがついたのだ。

言おう。

素直にそう思った。

この腕の中の、いじらしくって、孤独な、ぬくもるひとつの魂に。


さん。よっくお聴きなさい。

 自分でも戸惑うくらい、アタシはお前さんを好いてます。

 お前さんが心底、愛おしい――。毎朝目覚めるたんびに、救われてンだ。

 だからさんだってそれくらいアタシのことを思ってくれないとね。

 割りに合わないんですよ。そりゃお前ェ…半分はあの“助六”だもの。

 あの道楽モノぁね、なんだかんだとありましたけど、」


美しい瞳がいたずらっぽく細められる。


「アタシらきっと根っから、互いのことが好きなんですよ」

「っ…きくひこさん」


頬を包み込んで口付けを交わす。

相手の熱を、命を、唇から感じる。


さん」

「はい」

「添い遂げよう」

「はい、」


は声をあげて泣いた。

子供のように泣きじゃくって、愛する人の胸にすがって泣いた。

優しい笑みでそれを包み込んで、どちらともなく気がつけば眠りの縁についていた。

まどろむのはこの体温だけ。

この世で一番肌に馴染むのは互いだけ。











それから2年経つ頃、なんの気まぐれか、はたまた見出したのか、

最初で最後の一番弟子を取ることに至った。

一生弟子はとらないつもりだった。

この歳になって弟子というものに気の迷いが生じたのも、

それはやはりとの出会いがあったからだろう。

に出会うまで、心底終わらせてしまいたかった。

落語も、なにもかも、自分が全部抱えて死んで、終わらせる。

だが果たしてそれでいいのか――覚悟は固いが、

掛けてみるのも悪くない気がしたのだ。

突拍子もない思いつきみたいな行動に、小夏は一見呆れ返ってはいたが、

“おっさん”の気まぐれにしては、まんざらでもないようだった。

弟子は“与太郎”と呼ばれ、覚えることの多いこの世界に足を踏み入れた。

はその頃、もうすっかりこの家に馴染んでいて、

ひっそりと籍を入れる相談が出た矢先のことだった。

懐妊がわかったが、つらいことに腹の子は流れてしまった。

はひどく落ち込み、深く傷つき、とても苦しんだ。

与太郎が来たのはそんな時だった。

はそこではじめて、与太郎につられて助六の落語に夢中になった。

夜中にふたりで助六の落語を聞いて、ケラケラ笑えるほどまでになった。

こちらにしてみれば、良い心地がするとは言え無いが、

それでも、あれほどまでに気落ちしていたを絶望の淵から救い上げるのが、

父親である助六なのは皮肉ながらに幸いだとも思った。

はそれまで、助六の落語を遠ざけ、あまり聴こうとしなかった。

それでいいような、でもそれでは悪いような、

もやがかかったその複雑な父娘の感情に、折り合いがつくならそれでいい。

恨みながら生きることより、人を許すことは滅法難しいのだ。

はそれをやって見せた。


「なんだェ朝っぱらから。大口開けてケタケタと…うるさいったらありゃしない」


お小言を唱えながら起きてみれば、

居間では与太郎とが助六のレコードを聴いて笑い転げていた。


「あ!師匠!おはようございやす!」

「はい、おはよう」

「おはようございます、あなた」

「おはようさん。…ん。顔色がいいね」


与太郎はそんな夫婦のやりとりを聴いてニィっと幸せそうに笑うと、

再びヘッドホンを装着し、助六の落語の世界に戻って行く。

は夫の朝のお支度をしようと立ち上がる。

それを「いいから」と手で制す。


「聴いてなさい。妬けないこともないが、アタシも嬉しいよ」


はとても良い笑顔で微笑んだ。


「私の落語の一番は菊比古さん」

「ちゃあんと知ってますよ」


もヘッドホンを着けて、また助六に会いにゆく。

あのとんでもねぇ大馬鹿野郎の落語バカ。

客が喜びゃ何をしても構わねェと言い切ったバカ。

大師匠がいようが何だろうが、自分が良い、

楽しいと思ったネタしか掛けられねェバカ。

出会った頃から変わらない、いらずらっぽく人懐っこいあの笑顔。

あの目。


さん)


「――お前さんもちゃあんと、そういう好い目をしていますよ」


聞こえないと知っていて、そういう言葉が口をついた。









与太郎という居候も増えたのをきっかけに、

師の部屋はすっかり夫婦の棲家となっていた。

布団をふたつ並べて、眠る前にひとつふたつ、他愛ない話をすれば、

淡い色をしたふくよかな幸せが、毎夜毎晩この胸に湧き上がる。

明かりを落として、もぞもぞと布団を被り、少し静寂が訪れるのを待って、

ぽつりと愛しい女の名前を呼ぶ。


「ねぇさん」

「なぁに、菊比古さん」


はふたりの時だけ、旧い名で呼ぶようになっていた。


「写真、撮らないかェ」


が息を飲むのが感じ取れた。


「派手に祝言あげるわけでもなし…、

 そんくらいちゃんと残しておきたくってね」


「撮る…撮る!撮りたいです」


思わずあははと漏らして笑う。


「そんなら良かった」

「――あの着物を着てでもいいかしら」


の母の形見の着物――糸菊柄の、美しい着物。


「ああ――そうだね。きっとそれがいい」


隣り合った掛け布団の隙間からすっと手を出すと、

合図したわけでもないのに、やはりの手が出てきた。

どちらともなく手を繋いで、天井を見つめ、

おだやかに互いの熱を感じながら、心地よいまどろみに誘われるように眠りについた。









向島の小さな写真館に夫婦ふたりで出かけて行って、写真を撮ってもらった。

写真館の親父が、こんな美男美女の夫婦写真を撮れるだなんてェ

長生きっつーのはしてみるもんだァと感慨をあらわにするものだから、

こそばゆいような心持ちにこちらも気が良くなって、

珍しく家までの少しの距離を、菊さん、さん、と互いの名前を呼び合いながら、

ふたり手を繋いで帰った。

一張羅を着替え、と縁側で茶を飲みながら一息ついていると、小夏が帰ってきた。


「小夏っちゃんおかえりなさい」

姉たち帰ってたんだ。写真は?いつ仕上がるって?」

「アタシらの写真は見せもんじゃないよ」


小夏が噛み付こうとするのと同時に、

ガララと威勢のいい引き戸の音が響いて、与太郎が帰ってきた。


「ただいまもどりましたっ!」

「あら、与太郎さんも。おかえりなさい」

「師匠ぉ〜!ねえねえお写真どうでした?いつ仕上がるンです?」


与太郎はわくわくとした興味を隠す気もなく堂々と絡んできた。

はあと呆れたため息を吐いて、眉間に少しシワが寄る。


「仕上がったところで見せるかってんだェ」

「しあさってに取りに伺うの」


は嬉しそうだった。

そんな表情を見せられたら…。

反対なんて出来る訳がない。

なんだかそれも構わないような気になってしまうんだから、

甘いというか単純と言うか――自分でも呆れてしまう。


「――のあれァ…好い着物だから。

 取ってきたら見てもらいなさい」

「はい!」


幸せそうなの凛とした返事が愛おしい。

そんな一連を見る与太郎がやけにニヤニヤ嬉しそうに笑うものだから、

「ホラ!稽古の時間だよ!」とどやしつける。

小夏とは、そのまま縁側の端へ移動して、

洗濯物を畳みながら何やら楽しそうに話している。

炊事場で松田さんが夕餉の支度を始めると、

の気配は炊事場に移動する。愛しい声を耳で追う。

弥太郎に稽古をつけながら、この妙に心地の良い一瞬に、

かけがえのない幸せの色を感じて、胸が痛んだ。


(――信さん。アタシは――)


こんな幸せ、自分に許されていいのだろうか。

この期に及んで、こんなに人を愛していいのだろうか。

生きていることが億劫になる日もある。

だがそれでもが笑えば、その気はすっとどこかへ晴れる。


(この歳でこんな気持ちになるなんてね)


好いた女にしたって、の体は相性が良すぎるのだ。

雄型と雌型がしっかりはまるようだから、はこの腕の中に抱かれながら、口癖にように言う。


「菊さんはきっと、わたしの片割れなんだわ」


真実にそう思う。

だからこんなに惹かれて、焦がれて、肌馴染みがいいのだ。

あの“助六”の血が色濃く出ている、最近じゃそれが気にならなくなった。

なのだ。

この女は世界にひとりだけしか存在しない奇跡なんだから。


「――なかなか良いじゃないかェ」


噺終えた与太郎が、にかーと笑って上目遣いで頭を下げる。


「そらァもう。ぜんぶ師匠のおかげですから」
































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とりとめもなくダラダラと。

書き掛けだったお話をひっぱりだし、加筆修正の後、あげさせていただきました。

三つ指つきがちの古風な女性のお話でした。

20200410 呱々音