あの方は愛国心の塊だ―…わたくしは善く、思うのだ。

今日は久方ぶりにお屋敷に居て下さるようで、私は御邪魔をしないようにと

出来るだけ静かに炊事等をこなしていた。

浅倉様の―…お屋敷に置いて頂いて、もうどれ位になるのだろう。

思えば数年前の事―…。

私の人生はそれはそれは大きな転機を余儀なくされていた。

不幸な事故で家族を亡くし家を無くし―…女ひとり行く当ても無く、帝都という世間に迷い込んだ。

生前の父の職業柄の由縁で、親切な西宮先生に半ば助けられる様な形で働き口を与えて頂いたのだった。

私は住み込みで、先生の資料管理や雑務などをお手伝いした。

それこそ…いとまさえ有れば奥様のお手伝いなども一生懸命にやった。

そこにある日―あの方が―現れたのだ―浅倉良橘という―立派な殿方が―…。

玄関でお出迎えしただけの私を、浅倉様は先生と何か大切なお話されている間も時たま一瞥なさるのだ。

私は見目美しいその方に見られるだけで酷く緊張し、心臓は早鐘だった。

そして先生の口から、私の低俗ながらそこそこある由緒と生い立ちを聞かされて、一言。

「そうか。では、私の手伝いに来い」

と云ったのだ。

其れを聞いた先生はしばらくぽかんとしてらしたが

「独り身で多忙な浅倉君の世話を是非してやって欲しい」

と大層喜ばれ、先生の絶大なる信用の元、私は浅倉良橘様の傍に仕える事となったのだった。

仕える―…という言葉を使った時、浅倉様はその精悍なお顔を歪ませ、大変嫌がった。

「自宅に居る時までそのように上下を示す言葉など、聞きたくない」

以来私は若獅子の様な御方の束の間の安息のため、このお屋敷の一切を任されたのだった。

しかも―…自分で云うのも莫迦な話だが―とても―大切にされていると思う。

近頃は朝も疎らで、先刻の朝食の様に二人でゆっくりと食事を摂るのも減ってきた。

私は良く出来た殿方などに比べると頭が足らないので、

今日この国がどういった局面を刻み動き渦巻いているのか

その全体像など―…全く想像も付かない。

唯、何か影の様な物を感じるのも…否定できずに居た。

感覚的な物で喩えて良いのならば、それは漠然とした不安―…何て事は無い、勘、だ。

そんな真っ暗な泥濘に颯爽と突っ込んで行く様な愛国的潔さは、今の私には何処か欠けている。

―少しだけ、怖い。そして、憎い―

この思いが本心なのか否かは、私などには到底判別出来る物ではないが、

少なくとも―…その存在が、軍人である浅倉様を捕えて放さぬ事だけは…この頭でも解る。

そんな浅ましい事をぼうと考えながら、食器を洗っていると、

浅倉様の書斎の方から微かにオルゴオルの音が流れてきた。

何でも西洋で親しまれている大層貴重な舶来品なのだと教えて頂いた。

とても温もりのある音を奏でるオルゴオルが、私は大好きだった。

その微かな温もりの気配に耳を傾け、再び食器を洗い始める。

この時の私は…情けないくらい夢現だったのだろう―…

、」

「ッ!」

―カシャンッ!―

全くの無防備だった為、背後から突然掛けられた浅倉様の声に酷く驚いてしまった。

思わず濡れた手に持っていたお茶碗をひとつ、落としてしまった。

「嗚呼…そんな…!どうしましょう…!」

私は酷く狼狽した。

何故なら割れたそのお茶碗は…浅倉様と揃いの…お茶碗だったからだ。

青褪め混乱した私は、思わず泣きそうになりながら手を伸ばす。

「止せ」

浅倉様が逸る手首を掴んで止めた。

咄嗟に浅倉様の真っ直ぐな目を見て抗った。

「だって…いけません、私、こんなに大切な物を…!」

―…落ち着け」

浅倉様は今度は肩に両手を添え、幾分穏やかな口調で嗜めた。

瞬間、随分と取り乱した事を…申し訳無く思い、返事の変わりに静かに俯いた。

その様子を認めると、今度は浅倉様が自ら三つに割れた桃色のお茶碗を拾って、

口の危なくない面を慎重に選び、か細い私の手に手渡して下さった。

「折角…折角、浅………良橘様と揃いで買って頂いた―…私の…大切な宝物でしたのに…」

…二人で居る時は…そう呼ぶ様にと、浅倉―…、良橘様は私に仰るから…。

「…解っている」

押し黙ってしまった私は、きっと今にも泣き出してしまいそうな顔だろう。

―桃色の、お茶碗―。

沈黙すると同時に、オルゴオルの音が途絶えた。

中途半端な譜面部分で演奏を終えてしまった様だ…何だかそんな事までも悲しかった。

俯いた私と向き合っていた良橘様が、徐に流しに手を伸ばす。

何事かと思い顔を挙げ、その淀みの無い仕草を目で追った。

良橘様は自身の藍色のお茶碗を手に取ると、私から二三歩離れ、両の手で優しくお茶碗を包むと、

投げもせず唯…―…手を放し真っ直ぐ…―…落とした。

―カシャン―

「ッりょ…良橘様!?」

良橘様の足元で、藍色のお茶碗が私の物と同じように三つに割れていた。

そして同じ様に―淀み無く―その手で優しくお茶碗を拾い集めると、

私の前にそっと差し出し、嗤った。

「お互いに自分の物を自分で、割っただけの事だ」

私にとってはその言葉が酷く不器用で…優しかったから…。

困った泣き顔はすぐに呆れた笑みに変わった。

「…ええ…本当に。勿体無い事をしてしまいました…」

良橘様はふっと笑うと、私の手からそっと割れたお茶碗を受け取り、

来い、と一言だけ云って、書斎へといざなった。

割烹着を脱ぎ、良橘様の書斎机の向かいの別珍張りの長椅子に腰掛けた。

書斎机に着いた良橘様は、机上に二つ分のお茶碗の欠片を置くと、

硝子張りの戸棚を探り、洒落た空瓶を取り出した。

「仮に茶碗を直した所で、二度三度と割れても気が滅入るだけだ」

そう云ってその空瓶の蓋を開け、藍と桃の色をした焼き物の破片を、透き通った瓶の中に収めた。

―嗚呼…綺麗だ―

それで…良い気がした。

幼少の頃取り留めも無く集めた愛しいガラクタと同じ"大切な宝物"になったのだ―…。

「………綺麗、」

穏やかな日光が差し込み、机上に差し込む。

何だかそれが余計に収まった物をキラキラと見せるので、擽ったい穏やかな気持ちになった。

「…そうだな」

「…―良橘様、ありがとう…ございます…」

嬉しくて、笑った。

は…オルゴオルが好きだったな」

良橘様はそう云いながら席を立ち、瓶を持って―化粧台程の大きさの―オルゴオルの前に立った。

私はそんな良橘様を目で追いながら、はいと頷いた。

「ではこのオルゴオル台の上に置いておく。好きな時に眺めろ」

私は更に嬉しくなって―…何だか無償に恋しい気持ちになった。

―貴方様を愛してしまった事…いっそ愚かしいと罵って下さればどんなに良かった事か―

装飾の美しいオルゴオルの上にコトリと瓶を置くと、

良橘様はまだ夢見心地な私の隣に腰掛けた。

すると強引な素振りで私の体を引き寄せ…一寸意地悪く耳元で嗤った。

「その代わり…私が居るときは……私を眺めろ」

火照った。慣れぬからだ。こんな…世迷言の様な事…。

「―良いな?」

「…………はい」

朱を帯びた頬のまま、震える声でそれだけ告げるのが精一杯だった。

―嗚呼、勿論…私も出来る事ならずっと…そうしとう御座います―

耳元にあったはずの良橘様の唇は、離れる前に僅かに私の首元に触れた。

「…まったく…困ったものだ。午後にでも、二人で新しい茶碗を買いに行くぞ」

「…良橘様、本当ですか?その…お仕事は、」

「野暮な事を云うな」

「…すみません」

「…それに折角夫婦そろいの物を買うのだ。二人で選びたい」

私は―無礼を承知で―そっと良橘様の御胸に縋った。

良橘様の腕は、予めそれを待ち構えて居たかの様に、力強く私の身を抱きしめた。

「…嬉しゅう、ございます」

押し付けた分だけ、くぐもった声になって漏れ呟いた。

迷いの無い男は、それより更に迷いの無い明瞭とした声で、仰る。

「私もと、同じ気持ちだ」

―嗚呼それではきっと…この方も…狂う程に恋を、してらっしゃるのだ…―

尚も愛しいこの気持ち―…

どうかこのまま何時までも―…

千切れそうな程、私を抱き締めて居て欲しいのです。

―心の声を聞いたのだろうか―

私の身は更に強く、その長い腕で縛られた。

そして、云う。

「……―を抱けば…私は楽になる」

愛する人の言葉が、

私を、女にしてしまう。




















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映画のイメージがんがん先行「ローレライ」

浅倉大佐にお越しいただきましたー。

補足?としては…さんのお父さんは軍事外交に関わる人で、

浅倉さんも名前と顔と…まあその程度は見知った方だったのです。

だから余計に…というのもあるのでしょうが、

放っておける程容易いレベルの一目惚れじゃあ無かったんでしょうかね。

連れて帰っちゃってるし!!

でもはっきり云いますが別に身体目的とかでは無いです(殺される)

多忙な男一人という事で、女中さんか何かがおったのですが、

前任の人が辞めてしまって、一寸困っておったのが元々です。

最初はそんな理由から、です。

何処までもストイックな男性であって欲しいね浅倉さんには!

一線越えるとすごそうだけどな!!(殺された)

20071028 狐々音