100年前でもあるまいし、上司の娘を嫁にもらうはめになるとは…まさか想いもしなかった。
















そもそもマイクロフトという男は愛だの恋だの結婚だのという

「まやかしの契約」というものを世界で一番蔑んでいる。

現代において配偶者の有無における差別的な発言は、

社会的立場というものを貶める理由には該当しない。

それがもし建前上だとしても。

人がそれぞれの生き方を選べる昨今、実の弟にすら「孤独な男」と呼ばれた男に、

今まさに何度目かの「圧」が掛かっていた。

あるのどかな午後、マイクロフトがディオゲネスクラブ奥、

彼の隠れ家という名のオフィスに籠っていると、忠実な世話係からメモを渡された。

いわゆる彼よりも「目上」の人間からだった。

マイクロフトという男はとても有能で、頭脳明晰、

ゆえに他の人間がほとんどすべてバカか無能に見える特殊な男だ。

歪んでいる。

天才病とでもいうべきか、彼は持ち前の要領の良さを駆使し、

社会と折り合いをつけて、そつなくここまでやってきた。

無碍にするにはあまりにも意味深なメモを書いた人間の、

まさに言わんとしていることをすぐさま察して、

どうやって躱してやろうかと目頭をぎゅっとつまんだ。

ドアが軽快にノックされる。

すると返事も待たずにずかずかと、真っ白なロマンスグレーの体格の良い、

そして姿勢の良い卿がにっこりと微笑みながらマイクロフトの前に現れた。


「いや、いや、いや、マイクロフト。

 今日は一段と良いお天気だ。

 おっと失敬。入って良かったかな」


どうとでも取れる笑顔を向け、マイクロフトは椅子を勧めた。


「お忍びにしても、卿がこのような形で訪れるなんて、」


嬉々とした調子でマイクロフトを遮る。


「なに。用件だけ伝えてすぐ帰るさ」


この御家老、ひときわ食えないことで有名なのだ。

マイクロフトはそんな彼に気に入られている自信があったが、

それでも無理難題、心の底の底で考えていることは誰にも計り知れない。

ようするに国家機密に関わる上司部下の関係でありながら、

ただの変わり者同士でもあるということだ。

卿はお茶が出てくるのも待たずに、ウキウキと話し始めた。


「マイクロフト。君は私に借りがあったな」


――嫌な予感しかしない。


「ええ――確かに。あります」

「それも大きな借りがな」


それに関しては否定のしようもなかった。

確かに「でかすぎる」借りがある。

どれくらい「でかすぎる」かと言えば、例えるのは難しいが、

MI6の握っているロシアの武器に機密資料を、

向こう10年アメリカに横流しして払う程度には耳が痛い。

元凶であるあの愚弟が頭の中で笑っている。

妙に機嫌の良い卿は、ようやく淹れられた茶に口をつけると、

改まったように咳をひとつして居住まいを正してみせた。


「マイクロフト。うちの娘と結婚しろ。

 それで借りはすべてチャラにしてやる」









「お前の差し金かシャーロック」


胸ぐらを掴まれたベーカー街の名探偵は、しらけたような薄目で実の兄を睨む。


「何の話だ」


取り乱しきった兄の疲弊ぶりを見るのは最高だったが、

いくつか思い当たる「悪意」程度で、ここまで怒るのは不可能だ。

すぐさま否定しておくのが自然だろう。


「いや、兄さん。違う。僕じゃない」

「騙されないぞシャーロック。

 私に友達が必要?

 ハッ。百歩、いや千歩譲ってそこまでは《仮に》認めたとしよう」


シャーロックの得意気な顔を人差し指で制す。


「だが」

「何」

「結婚は別だ。ありえない。絶対に!」


シャーロックはややあって、ついに吹き出した。

そして散々転げ回るように笑った。


「マイクロフトが?結婚?ありえない!

 そんなの絶対にありえない。

 自然の摂理に反する。

 人類は必ず滅亡するが、目下そこまでの危機は迫っちゃいない。

 なのになんでこの冷血マイクロフトなんかが――」


涙を流して笑っていた探偵は、急に真顔になった。


「ワオ。そうか。なるほど――すごいな」


頬を引きつらせた兄は、にっこりと笑った。


「じゃあなシャーロック。

 今度は私が死ぬ番だ。私は早急にタヒチに逃げる」

「待てよ兄さん。案外名案かも」

「まあな。ジャマイカよりは良い」


シャーロックはとぼけた声を出して、眉間を盛大に寄せた。


「ジャマイカ?

 そうじゃない。結婚が」

「……立ちくらみがする」


マイクロフトはついに最後の糸が切れたかのように、よろりとソファに座り込んだ。


「で?相手は」

――ああ。JICの《ご主人様》か。

 なるほど。それは断れないな。

 なんせ大きな借りがある」

「ああ。お前のせいでな」

「僕は頼んでない。

 確か娘のは大学で流体力学を教えていたはずだ。

 論文を読んだことがある。センス良い。なかなか面白かった」


形だけの結婚で良い。

卿は狼狽えるマイクロフトに、特にその箇所を強調した。







娘はそこそこ気立てが良いくせに、

恋愛に関してはまるで興味がなくてな。

終いには私の見立てた相手との見合いでいいとほざきおった。

なに、君は社会的な信用を得るために結婚すればいい。

別に夫の務めを果たせとはこれっぽっちも言わんよ。

あれも大概仕事の虫だ。

君だってそうだろう?

ようはビジネスパートナーみたいなものだよ。







思い出しただけでも目眩がした。

だが大きすぎる借りを返せと迫られて、躱せるほど単純な相手ではない。

向こうだってかなりの策士だ。

あの御家老がその気になればマイクロフトも舌を巻くほどの出来事が起こるに違いないのは明白だ。

柄にも無く、だらりとソファに身体を沈ませて、

まるで死んだ魚のようにうつろな目をしたマイクロフトは、最後の嫌味を口にした。


「ああ…シャーロック…。

 お前のせいでJICの委員長に盛大に紅茶を噴き掛けたあげく、

 人生の墓場へ送られるはめになろうとは…」









それから1週間後、マイクロフトの元へ1通の招待状が届いた。

内容はさておき、あまりにも素っ気ないただの白いカードだったが、

送り主は未来の妻からだった。



『はじめまして。ミスター・マイクロフト・ホームズ。

 来週水曜日、ヘストン・ブルメンタールの店で

 2人きりでディナーでも。

 19時にお待ちしております。

 ――



読み終わると彼はその高すぎる鼻をカードに近づけた。

――ケルクフルール。ふむ、悪くない香りだ。

まだ顔も見たことがない相手だ。

もちろんアンシアに調べさせた資料に添付された写真は見た。

知れば知るほど今のこの状況すべてがシュールに思える。

無意味で奇妙奇天烈だ。

今日何度目かの深い溜息を吐くと、うんざりとこめかみを押さえながら、

マイクロフトはアンシアを呼びつけた。


嬢に花とカードを。

 “お誘いありがとう。ディナーを楽しみにしています”」

「花は何色にします?」

「色?

 ああ…勘弁してくれ」


“楽しみにしています”――もちろん社交辞令だ。

キッチン・ケミストリーに興味は無いが、

ヘストン・ブルメンタールの料理は、まあ…まずまずだ。

心中はおそらく食事どころではないだろうが、どうせ口にするなら味はまともな方が良い。

カードを貰った晩から1時間の軽いランニングマシーンを再開したのだって、

彼に言わせればただの偶然に過ぎない。

それと季節の変わり目に、ちょうど良いスーツを新調しようと思っていただけだ。

何か特別な理由がある訳ではないのだ。

憂鬱な水曜日のディナーへ向かいながら、

もう何十回と唱えてきたそんな「言い訳」を心の中で呪文のように繰り返した。




嬢と約束をしていると伝えると、すぐに席に通された。

程よく賑わう店内の奥で、訊かずとも輝いている存在に気が付いた。

――全く…あの人間は特別だ。

少なくとも、シャーロックやその取り巻き、そしてマイクロフト側の人間に間違いない。

マイクロフトは確信した。

――スローモーションだ。

美しい女性が、こちらに気付いて微笑みかける。


「――お待たせして申し訳ない」

「お会い出来て光栄ですわ――ミスター・ホームズ」

「マイクロフトと」


は輝くように笑って、私の事も、と付け加えた。


「分子料理か」

「古典が好きだったらごめんなさい。

 私の悪い癖。ついケミカルは方向に…、職業病なの」

「いや構わない。楽しめそうだ」


ワインリストが下げられているところを見ると、既にもう一本注文済みなのだろう。


「何にしたのかな」

「レヴァンジルにしたわ」


これは驚いた。

実にスムーズだ。


「2001年?」


彼女は頷く。


「2000年より好きなの。良い年だった」


なるほど――話してみれば実に聡明だ。

話し方も知的で、その辺の女のようにやかましくない。

少なくともこうして食事と会話をしている間だけは確実に。

レストランの客に的を絞って、推理ゲームが始まるのも時間の問題だった。

ワインを飲みながら、マイクロフトの気分は少し、いや――かなり良くなっていた。


「正直言うと本当はディナーどころじゃなかったんだが、

 これはこれで良かったようだ」

「敵が多そうだしね」

「こう見えてこの国の平和を守っていてね」

「ああマイクロフト。認めて。

 楽しかったでしょ?」

「君はどうだ。

 ――少しは良い誕生日になったかな」


彼女はその大きな瞳を見開いて、口端を持ち上げた。


「…さすがね。

 ありがとう。私は楽しかったわ。とってもね」

「実は車のトランクに花束が用意してある」

「あなたって最高」


はワインをひとくち飲み下し、しみじみ首を振った。


「――結婚なんて私以外の人間のすることだと思ってた」

「私はあくまでも契約書を書くだけだ。

 結婚はこの世で最も愚かでおぞましい契約。

 愛や恋という感情以上にくだらない。

 ――とまあ、私はこういう人間だ。

 。今ならまだ引き返せる。

 選び方さえ間違えなければ、このロンドンの中でさえ、

 もうちょっとマシな結婚相手がいるはずだ」


テーブルナプキンでそっと口元を押さえると、は微笑んだ。


「ねえ。店を出て、少し歩かない?」




裏手に広がるハイドパークを、街灯沿いに並んで歩く。

平素なら退屈な作業には違いないが、あいにく今日はまだ言うべき言葉がいくつか残っていた。


「今日は悪くなかった。

 キッチンケミストリーというのもなかなか…、

 いや――楽しかったよ」

「あなたの言う“契約”、元はと言えば父が言い出したことだけれど…」

「その通り。私は逆らえない」

「私はラッキーかも」

「…そうきたか」


マイクロフトは短く溜息を吐いた。


「あなたはちょっと悪知恵の利く相棒を手に入れるだけ。

 私を女だと思わなくていい。

 趣向も性癖も気にしない。

 あなたを拘束しないし、私も拘束されない。

 ――でも私は、もしあなたに希望があるなら、

 それを聞きてみたくなるタイプの人間」


この数時間ずっと感じていたことだが、彼女は不思議な魅力の膜みたいなものに包まれている。

それはマイクロフトの人生からは一番縁遠い、

ロマンスや魔法といった類いのまやかしに似ているのに、

確かに今、目の前で星のように奇妙に瞬いている。

手が届く距離に存在する知性。

人類で最も凶悪な男女契約。

――何ともおぞましいじゃないか。


「…降参だ。前向きに検討してみよう」

「交渉成立ね」

















































「……つまりただのスイッチだったのさ。

 ああ、ところでなぜ僕がこの手の知識に明るかったかと言うと、

 ――ん?マイクロフト結婚した?」

「まあな」


鉄塔のように手を合わせた探偵は、

自らの素晴らしい推理披露を途中で断ち切るように顔をしかめた。


「もう2週間経つ。気付くのが遅いぞ、弟よ」

「兄さんに興味が無さ過ぎて」


マイクロフトは長い足を組み直して、ハドソン夫人が淹れた紅茶に口をつける。

その夫人がここにいないことは幸いだったが。

弟は兄に頼まれた仕事の報告に、興味を失いつつある。

すかさずマイクロフトが釘を刺す。


「シャーロック。まずは仕事の報告だ」


せっつかれたシャーロックは適当にかい摘んで報告を済ませると、無言で兄を見つめた。

この兄弟は思う所があると、言葉にせず相手をじっと見つめて狼狽えさせる。


「…………なんだ」

「別に?」

「何なんだ!」

「何でも無い」

「その手には乗らんぞ」


シャーロックはまるで兄を馬鹿にするように鼻で笑った。


「まだ言ってないんだろ?」

「言っていたらここだって

 お祭り騒ぎの電話が鳴り止まんさ」


言っていない――“あの”母親のことだ。

弟以外の人間に対してほとんど興味を抱かず、潔癖で、 友を持たないマイクロフトに、まさか「配偶者」なるものが出来たと知れれば、

やれ結婚式だ、ハネムーンだ、孫の顔を見せろだの、上へ下への大騒ぎに決まっている。


「で?結婚した感想は?」

「なんて事はない。大人のごっこ遊びみたいなものだ」

「“マイキー”にはぴったりじゃないか」


兄に反して弟は楽しくて仕方が無いのだ。

散々馬鹿にされ続けた弟は、ついにきた報復の機会を決して逃さない。

階下から陽気な声が聞こえてきた。


「コンコン。お邪魔してごめんなさいね。

 シャーロック、お客様よ。

 あなたたち“2人”に依頼があるそうよ。

 大家さんにってハロッズのクッキー持ってきてくれたのよ。

 気が利くじゃないの。こんなのって初めて。

 ハァ…とっても素敵なお客様。あなたたち、とにかく彼女に優しくね」


最後の言葉はハドソン夫人お得意のちっとも控えめでない囁き声で付け加えられた。


「あの…ハァイ」


ハドソン夫人と入れ替わるようにひょっこりと顔をだした人物は、

少し緊張したような、それでいて胸の奥で言い表せない高揚を押さえていると言った具合で、

とても感じよく微笑み掛けてきた。


「アー、ハァイ。ええと君はー」

「はじめまして、ミスター・シャーロック・ホームズ。私は、」


訝しげに席を立ち、覗き込むシャーロックをよそに、

マイクロフトはまるでドイツの陶器人形のように固まっている。


「…………来たのか」


マイクロフトに名前を呼ばれた人物は、ほころぶように微笑んだ。


「シャーロック。こちら・ホームズ……妻だ」

































兄の自己防衛本能は並々ならぬものだと理解している弟は、義理の姉が登場するや否や、

ふたりの門出を祝うようにすぐさま良いワインの封を次から次へと開けた。

その手には乗らないぞと拒絶を示す兄を他所に、

秘蔵のシャトー・マルゴーのボトルを眼前に突き付けられたのが運の尽きだった。

飲めばこの偏屈男も、少しは饒舌になるだろう。


「――で?兄はどう?

 まだ馬鹿にされたりはしてない?」

「残念だったなシャーロック。彼女は馬鹿じゃない」


今この瞬間、3人はまるで打ち解けた昔なじみの友達のようだった。

マイクロフトでさえ、普段に比べれば格段に機嫌が良い。


「いつ籍を入れたんだ。僕は気が付かなかった」

「気付く間もないさ。

 食事をして、利害関係を確認し、翌日役所へ行った」


マイクロフトがグラスを呷る。


「ちゃんと指輪もプレゼントしてくれたのよ。

 ハイドパークを歩きながらね」

「耳を疑うな」

「誕生日だったし。多めに見てよ」


彼女は笑った。


「お互い呼ぶ人間が居ないから、式は挙げる必要なくて」

「結婚登記所に行けば10分で済む」

「なるほど。似た者夫婦ってことか」


シャーロックなりの皮肉に、が愉快しそうに笑う。

マイクロフトがこの結婚を受け入れているのか、諦めているのか、

そこまでは解らなかったが、勧められるがままワインを空け、

ソファに凭れたまま寝息を立て始めるまでそう時間は掛からなかった。

が膝掛けを掛けてやる。

暖炉の音がぱちぱちと、耳に心地よい。


「――本当のところ。君に感謝してる。

 君は頭も良いし、話も面白い。

 兄にはぴったりだ。

 これでやっとマイクロフトに親友ができる」

「光栄だわ。

 でもそれ彼に言わない方が良いわよ」

「言うもんか」


シャーロックはいたずらっ子のように笑った。

もどこか人を惹き付けるそのとろけるような笑顔で笑った。


「私ね、結構満足してるの」


シャーロックは肩をすくめる。


「いいんじゃない。

 親の決めた結婚なんて、“ちょっと”前まで常茶飯事だったんだ。

 それでも人類はほとんど抵抗せずここまで上手く営んできた」

「一緒にいて楽な人間って居るのね。

 都市伝説かと思ってた」


シャーロックは同意するように相づちを打った。

この探偵、昨今思い当たる節がありすぎる。


「もし兄の取扱説明書が必要になったら

 いつでも僕に聞いてくれ。

 マイクロフトのことなら何でも知ってる。特に弱点。

 まあ、ホームズ夫人に掛かればそんなもの必要ないかもしれないが、」

「彼、認めないけどオレンジジュース好きよね」

「ああ。昔からそうだ。実は目がないくせに」


声を出して笑い合う。

赤ん坊のようなしかめっ面でマイクロフトが、うん、と身をよじるので、

弟と妻は人差し指を口に当てて笑い声を押し殺す。


「それにしても良く寝てる…。

 そんなに疲れてた?」

「実は兄のグラスに薬を入れた」


シャーロックはポケットから取り出した小瓶を顔の前で振ってみせた。

は空いた口が塞がらないことだろう。

「呆れた」

「早く慣れて。

 おかげで君とこうしてゆっくり話ができる」

「結婚に」

「結婚に」


ふたりは再度グラスを打ち鳴らした。


















―――――――――――――――――

ナオさんへ!ハッピーバースデー!

権力に逆らえず籍だけ入れるも案外しっくりくる…

うちのマイクロフトはこんな感じです。

お見知り置きを!(笑)

20160307 呱々音