馬の背なに優雅に跨がり、男は薄く口角を上げた。

ひどく楽しげな表情で、目を細める。

敵も味方も問わぬ天を劈く悲鳴。

強かに脈を打つ鼓動が破裂する音。

誰とも判別できぬ、飛び散る鮮血。

美味そうに上下する喉の音。

頭蓋を砕く音。

眼前に広がるは、まさに地獄絵図。

なんと素晴らしい光景であろうか。






















対抗組織(レジスタンス)の後退が終戦の合図となる。

愛する者を殺され、あるいは吸血鬼として再び命を弄ばれ、

じりじりと引き下がる彼らの瞳には

推し量る事など敵わぬ憎悪の色がありありと滲む。

皆深い憎しみに歪んだ目で、雅を睨む。

雅は嘲笑う。

これで今日の殲滅は幕引きとなった。

取るに足らぬ余興にも、率いる吸血鬼どもは喜びの声を上げる。

頭領である雅とて満足とは言わぬが、決して不愉快な訳では無い。

言うなればすでに終わった事へ興味を失いつつあるだけだ。

雅は微かに鼻を鳴らすと、馬の手綱を小さく引いた。

馬の鼻先を城の方へと向かわせた頭領の背に向かって、

老婆が言う。


「雅様――まだあちらに生き残りが」


しゃがれた老婆の声音に、幾分かの含みがある。

手間と切り捨て、老婆と吸血鬼どもに後を任せても構わぬのだが、

雅はふいに馬の足を止めた。

ややあって手綱を手前に引くと、また向きを変えさせ、

老婆の目を見ず「案内しろ」と短く述べた。

















生き残りと呼ばれた人間は、表には出ていなかった。

村の外れのゴツゴツと尖った岩の窪みに、

男の腕より太い角材で仕切られた格子の柵。

人目から隠すように設えられた――それは紛う事なき檻であった。

雅の脳裏にふと封印されていた己の姿が蘇る。

仄暗いその格子の向こうに揺らめくのは――白い影だった。

雅は思わず錯覚した。

――いつぞの私の姿か――否…あれは――。

柵を隔てているとは言え、“それ”は怯えて居なかった。

この島を悪夢と絶望で彩った吸血鬼の頭領である雅を眼前にしても、

臆する素振りも見せず、こちらの様子を伺うように

そっと柵に身をくっ付けて馬上の雅をじっと見つめている。

“それ”は――まだ少女だった。

髪と肌は雪原のように白く、瞳は緋かった。

実に奇妙な光景だ。

まるであの日の己への皮肉なオマージュを見せられている気分になる。

少女は眩しそうに目を細めた。

雅の背後にそびえる太陽のせいだろうか。

反射的に馬の足を一歩、前に踏み出させていた。

これで太陽は完全に背に隠れたであろう。

逆光の中に歴然と現れた吸血鬼の始祖の姿に、少女の目が見開かれた。

次の瞬間、少女の瞳に浮かぶのは恐怖の色だと確信していた雅の耳に

信じられぬ言葉が飛び込んで来た。


「かみ…さま」


なんの怯えも躊躇いも邪心も含まぬ血のごとき緋い瞳が

真っすぐに自分の目を見つめ、細く青白い手を痛々しく伸ばして宙をもがく。


「かみさま、かみさま、」


雅の瞳の奥が、誰にも悟られる事なくふるりと揺れた。

次の瞬間、鋭い速さで振り下ろされた鉄扇によって、

物々しい角材の檻はいとも容易く瓦解を遂げていた。

















城に着くと、雅の姿はあっという間に見えなくなった。

老婆に引きずられるまま、少女は熱い湯に放り込まれて、

垢を落とされ、着物を着せられ、いびつな形の味噌にぎりを出された。

襖だらけの部屋――板間の上には、ぽつねんと座る少女と味噌にぎりだけ。

少女は味噌にぎりをそっと手に包むと、

疑う素振りも見せずもそもそと咀嚼を始めた。

ふいに、耳元で声がする。


「やはり人間だったか」


ぞわりと肌を這う囁きに、少女の手から、ぼてっと握り飯が落ちた。

振り返ると――そこには雅が居る。

逞しい肉体にゆるりと纏わる品の良い着流し。

優雅に崩した足。

髪も肌もやはり半紙のように白く――目は仄暗い血の色だった。


「どうした?

 ――拾え。お前の食う所を見ていたい」


少女は握り飯を拾い上げると、またそれをもくもくと食べ出した。

咀嚼を続ける少女を雅の目が視姦するように見続ける。

最後の一口が喉の奥に飲み下されたのを見届け、

雅が口を開いた。


「名は」


少女は考え込むように俯いてしまう。

伏せられた長く豊かな睫毛は、何か特別な言葉を探していた。

緋い瞳は打ち明けるように、再び雅を見据えたが、

やはりそこに怯えや恐怖は含まれていなかった。

雅にはこれが奇妙に思えてならなかった。


「…自分の名前を知りません」

「ではお前はなんと呼ばれていたんだ」

「……び」


声がくぐもる。


「…――みやび」

















村人は怖れた。

白い髪と緋色の瞳は、この島の最悪の象徴そのものだったからだ。

呪いを危惧してか殺す訳にも行かず、

かといって村の一員として迎え入れるには

あまりにも不吉な存在であった。

忌まわしい吸血鬼雅の再来とまで言われ、

物心ついた時から、少女の世界は柵で仕切られたあの岩の窪みだけだった。


「なるほど。実に下らない」

「――雅様、」


少女は感情の籠らぬ声で問う。


「わたしは吸血鬼ですか」

「生憎だがお前は人間だ」


にべもなく告げた雅の心中は、誰にも知られる事無くざわついていた。

ややあってから、血のような深紅の瞳を少女に差し向け、ずずいと詰め寄った。


「お前はなぜあの時、私を“神”と呼んだ」


すると少女は、雅が想像していなかった答えを返す。


「殺してもらえるのかと思って」


そう言って柔らかく微笑んだ。

心中のざわつきは大きな波となって雅を圧迫した。

この瞬間、己の興味の矛先が全身全霊でこの卑小な少女に向いたのだ。

沸々とわき上がるえも言われぬ滑稽さ――あるいは愉快と言うべきか。

雅は高らかに笑い声を上げた。


「おもしろい――人間にも吸血鬼にもなれない憐れな兎か」


血の色をした瞳は、捕らえるように少女を見据え続ける。


「私の玩具になれ」


雅はいつになく興奮していた。

新しい玩具を手に入れたのだ。

















アルビノの兎を手に入れた吸血鬼の頭領はひどく楽し気に笑った。


「似合うじゃないか。上出来だ」


雅の前に恭しく現れた少女には、

フリルとレースが幾重にも折り重なったドレスが着せられている。

髪も肌もドレスも――真っ白だった。

小さなお姫様と言ったところか。

着付け、髪を纏めてやったのは冷だった。

















昨晩日付も変わる頃、人間の調達から戻った冷は思わず息を飲んだ。

雅の膝の上にちょこんと座る、雅によく似た――。

……いや、よく見れば全然違う。

白い髪と赤い目という共通の容姿はそれこそ似通っているが、

少女は可憐で、まだ幼く――そして人間だった。

状況をうまく呑み込めず、言葉を失って立ちすくむ冷の姿を見て

雅が愉快そうに嘲笑う。


「ああ、冷――帰ったか。

 お前より遥かに優る玩具を手に入れたよ。

 見てみろ冷。白い子兎だ」

「っ――雅様!!!」


冷は思わず悲鳴を上げた。

こんな幼い少女に己の受けた恥辱が降り掛かると思うとぞっとする。

雅はそんな冷の心中を弄ぶかのように、構わず言葉を続けた。


「ずっと岩の窪みに閉じ込められていたんだ。

 どこかの小猿みたいにな」


皮肉に笑う雅の目には、もう少女の姿しか映っていない。

冷はなんとか動揺を隠そうと、取り繕うように言葉を探した。


「……ひどい話」

「自分の名も知らぬらしい」


その声はひどく弾んでいる。


「こう見えて歳も十七だそうだ。

 どうだ。優秀な玩具だろう」


耳を疑った。

その容姿はせいぜい十二か十三か。

甘い美貌と幼く未発達な躯体が、さらに異形の者に思えて冷の背筋が凍る。

それと同時に冷の心に芽生えた感情もまた、

雅とは違う類いの――哀れみだった。

ろくに日の差し込まぬ冷たい岩の中で、名も貰えず、

家畜以下の扱いを受けて――順調に発達できなかった身体が痛々しい。

雅が人間に見切りをつける気持ちが、

自分にもなんとなく理解できてしまった気がして

冷は遣る瀬なさを覚えた。


「冷――来い。

 お前にコレの世話を任せようじゃないか」

















雅に言われるがまま預かったというのが正しいだろう。

否、それでもきっと冷は放っておけなかった。

少女は聞き分けが良すぎて怖いくらいだった。

かと言って人に嫌われまいとしているような気配もない。

冷は――嫌でも妹達のことを思い出してしまう。

――雅はそれも解っていたのかもしれない。











雅は上機嫌で鉄扇を閉じると、手を広げた。

少女は当たり前のように雅の元へ駆け寄る――飼主を求める犬のように。


「玩具の兎に名前を付けてやる。

 …――。お前の名はだ」

……」


緋い瞳が見開かれ、ふるりと揺れる。


……、……!」


今にもはち切れんばかりの悦びに胸を抱え、

は恍惚の表情を浮かべた。

宝石と見紛うほど綺麗な涙が一筋頬を伝うが、どうやら気付いていないらしい。

名前は――呪いだ。

吸血鬼に、男に、雅に、捕われる。

繋いでくださいと千切れんばかりに尻尾を振る。

冷は思わず目を背けた。


「嬉しいか」

「はい」


白い少女はこの上ないほど幸せそうに笑った。

















吸血鬼の群れの中に囲われた人間の少女。

だがそれは餌のために捕われた他の人間たちとは

似ても似つかぬ至高の容姿を持ち、

血に飢えた吸血鬼たちを束ねる頭領に

見事に見初められた。

雅の気紛れにしては、それはとても特殊で、

冷をはじめ周囲の者――ましてや当のですら

雅はそのような余興にすぐに飽きてしまうだろうと踏んでいた。

だがしかし――甘く幼い身体は雅を慰めた。

は天性の“魔”だった。

細い腕をねじ伏せずともいとも容易く組み敷かれて、

歓喜し、悦なる声を漏らすか弱い躯体。

絡み付く四肢は申し分無いしなやかさで雅を包み、

この外道を労るようにして抱かれる術を始めから知っていた。

情事の最中、血を吸われる事にも抵抗を見せない。

薄い肌に牙を立てられ、貪る雅に堕ちる時、

少女の身体にはえも言われぬ恍惚が駆け抜ける。

血の滲む首筋は、誰も奪う事の叶わないの唯一の宝物だった。

冷は始め、はその小さな身体をいじめ抜かれて、

餌にされて死んでしまうのだろうと踏んでいた。

だが幸いな事に、今の所それは冷の杞憂で済んでいる。

雅は存外、玩具の兎を大切に扱っている。

玩具の兎に触れて良いのは雅だけで、

他の者がに対して少しでも無礼な態度を取れば

そちらを斬り捨て、から他の牙を遠ざけた。











雅の気紛れなのだと。

誰もがそう信じて疑わない。

だけでなく、雅とて、そう信じていた。

だから。

愛馬にを乗せて、ふたりきりで散歩へ繰り出した時、

雅は腕の中のに向かって、こう問うた。


「いつか私がお前に飽きて、

 玩具が餌に変わったらどうする」


腕の中の少女は頬を染め、可憐に笑うと

雅の瞳を真っすぐ見つめて即答した。


「骨まで食べて下さいませ」


雅の口には一瞬にして、自分を酔わす美酒がごとき少女の血の味と、

犯しながら少女を食らう己の姿が脳裏に過った。

滾る思いがした。


「吸血鬼にすると言ったら?」


の眉が悲しげに垂れる。

ルビーのように輝く瞳はたちまち潤み、

先刻とは打って変わって不安げに雅を見つめた。


「…――私が吸血鬼になっても、

 今と変わらずお側において下さいますか――?」


雅はひどく満足げに口端を上げると、初めて――少女の唇を奪った。

の目が見開かれる――が、すぐにうっとりと瞼は閉じられる。

何度身体を重ねても、これだけは今まで一度と与えられたことはなかった。

欲しいと思った事も無いが、それはがその行為の意味を知らなかったからだ。

優雅に歩みを進める馬が踏みしだくのは、

殲滅したばかりの血と汚物に塗れた生臭い死体の山の上。

馬が脚を落とす場所からは、いちいち死体の骨が折れる音がする。

どれほどそうして口吻けしていただろう。

離れ際、はそっと唇を噛まれて、雅はそれを舐めた。


「…雅様に必要とされるなら物だっていい」


消えそうな声でそう呟いた。

雅は聞こえぬふりをした。


「ただの物では側に置けぬことくらい、お前なら解っているな。

 駒で在れ――そして私の玩具でいろ」

「はい」


胸に縋り付くアルビノの兎が、もう何も言えぬように

射抜くような眼で絡めとる。


「この馬に乗せたのは、お前が初めてだ。

 ――嬉しいか」


は恥じらうように長い睫毛を伏せると、首を振る。

そして泣きそうな声で一言。


「…――幸せです」


と告げた。








































































































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映画版の夢です。

あの白馬に乗ってゲログチャな屍を踏みしだきながら

キャッキャウフフと戯れる幼女と雅が書きたかっただけです。

本当にそれだけなんです。

映画を見た時、白いおべべを汚しながら、雅の首を抱きしめて

さめざめと泣く幼女を幻視したのは私ですごめんなさい。

20120317 呱々音