「二人で行ってらっしゃい」



実家独特の忙しない様子を背景に、千鶴子はさらりと云った。

























暑中、京都。

祇園祭の準備やら助けやらのために、千鶴子は毎年実家の手伝いに京都に里帰りをする。

通例通りならば、千鶴子は夫である仏頂面の古書肆・京極堂こと中禅寺秋彦を、独り東京に残して帰郷する。

連れて来たとしてまさか手伝わせる訳にもいかぬし、まず朴念仁は祭りの為に働く気もないのだろう。

一家総出のこの伝統的な祭においては、はなから役立たずだと解っている。

だからこそ、千鶴子は猫と亭主に留守を任せ、京都に馳せ参じる――はずであった。




しかし今年は――少し勝手が違う。




祭の準備に浮き足立った京都の実家に帰ってきた千鶴子の後ろには、

京極堂と探偵―榎木津礼二郎―…、そして麗若き薬師――の姿があった。



いの一番、千鶴子は困ったように言った。



「やっぱり人の出入りが多くて…。

 うちの人は私の部屋にぶち込むとしても…どこも部屋がいっぱいなんです」



するとバタバタと忙しない奥の方から、女性の声が溌剌と飛んできた。



「千鶴ちゃん、伯母様が離れの部屋空いたて云うてはるよ」

「あら、おおきに」



ふいに飛び交う京弁に、は少しどきりとした。



「では榎木津さん、大変申し訳ないのですが、夫と一緒に離れを使って下さいませんか。

 狭いでしょうが…さんは私の部屋に。ごめんなさいね」



困ったように笑う千鶴子を見て、は大きく頭を振った。




それは――違うのだ。




「とんでも無いですわ…!私の方こそこんなお忙しい時にお邪魔をしてしまって―…」



もとはと云えば。

千鶴子と京極堂が旅立とうというまさにその時、

薬師の手を引いた探偵が現れた所から顛末は発している。




この――榎木津大明神がいけなかった。




そもそもは、京極堂に用事があった。

自分の薬店の仕入先の御仁が、中国漢方薬膳の珍妙な本があるというので、

京極堂はを介してその本を手に入れる――。

そういう手筈だったからこそ、は手に入った本を持って京極堂へと向かうつもりでいたのだ。

しかしたまたま店に現れた榎木津――これも別段薬が欲しい訳ではなく、

そのものに用事があって立ち寄ったのだ。

榎木津はチェック柄のズボンに変てこな襯衣を合わせ、

相変わらず自信満々での前に立ちはだかった。

首下に巻いたネクタイは蝶結びになっていた。

“視た”彼は概ね察しが付いたようで、気が付けばは手を引かれ京極堂に居た。

よそ行きの服を纏った中禅寺夫妻に向かって、榎木津は全力で――駄々をこねた。



「ずるい!僕もお祭りに行きたいぞ!お馬を見るのだ!ほれ、ひひいん」

「――ああ君。本が届いたのだね。わざわざ届けさせてすまなかっ」

「京極ッ!この僕も連れて行けッ」

「僕は仕事で行くのです」

「識っている!蔵あさりをするんだろう。

 おい千鶴ちゃんっ少なくとも僕は京極よりずッと役に立つぞッ!」



嘘である。

この場合、言葉どおりに取ってしまえば――それは絶対、嘘である。

榎木津は自分が神だから居るだけで役に立つと言っているのである。

何の事は無い、京極堂に比べればいるだけでマシという程度の役得を言っているだけである。

暴走する榎木津を止められるはずも無く、ただただ硬直するばかりを尻目に、

千鶴子は慣れた様子で苦笑した。



「仕方ありませんわね」

















その一言で、このようにとんとんでの京都旅行は決まってしまったのだった。

もちろん泊まりの用意など何も持っては居ない。

汽車の時間もあるから、取りに帰る暇も無かったのだ。

榎木津は日々転がり込んでいるので、中禅寺邸をほじくり返せば、

案外服だの下着だのが2、3着は出てくる。

しかしの服などある訳もないから、千鶴子が工面すると快く申し出てくれた。

榎木津に強制参加させられたは千鶴子の優しさに甘える他無かったのである。









そうして離れの部屋を宛がわれた京極は、荷物を置くとさっさと出掛けてしまった。

どうやら本当に仕事があるようだった。

千鶴子が、西陣界隈の名士の蔵から本が大量に出たから処分して欲しいと頼まれたのだと教えてくれた。

やはり榎木津はただそこに居るだけであった。

頼まれでもすればもしかしたら動くのかもしれないが、

離れの縁側に脚を投げ出して、この家の猫と戯れて遊んでいる。

はと言えば、夏バテか――食が細くなって困っていた千鶴子の母親に漢方処方の相談を受け、

すっかり気に入られてしまったらしい。

もはや飛び入りの邪魔者というより客扱いである。

とは云え、人手が足りないから大した構いが出来る訳でも無いから、

とにかくこの家を好きに使ってくれて良いと賜ったのだった。

手持ち無沙汰のは大人しく離れに下がり、

早速この環境に馴染みつつある榎木津の横に居る事にした。

離れとは云っても、物の出し入れがあるのだろう。

たまに家の者が忙しなく横切っては、女は皆、榎木津を見て頬を染めた。

がそれを見て良い知れぬ何かを感じるより早く、榎木津は何も言わずの手を握っては、

ぎゅだのぱあだの訳の解らない声を発した。

決して不快ではないのだが、それではいちいち心臓が持たぬから止めて欲しいとは切に懇願した。







昼食、まかないに握飯が山と積まれて出てきたらしく、

それを何個か取り分けて、千鶴子が持ってきてくれた。



「お腹が空きましたでしょう?こんな物で宜しかったら、たくさん召し上がって下さいね。

 あら…やっぱり惣は懐きましたね」



惣と呼ばれた猫は、こんなに暑いというのに榎木津の膝の上で満足そうに寝息を立てていた。

榎木津はよく解らない悲鳴を上げると実に美味そうに握飯に食らいついた。

は涼しげな陶器に注がれた麦茶を一口飲んだ。

冷たい麦茶が喉に染みた。



ちゃん、午後はお祭りに行こう」

「え?」



聞き返してしまったが――それはそうなのだろう。

榎木津は祭が見たくて、付いて来たのだから。



「二人で行ってらっしゃい」



実家独特の忙しない様子を背景に、千鶴子はさらりと云った。



「浴衣を着せてあげるから、楽しんでいらっしゃいな」



確か百合かしじれの着物があったはずだわと言って、千鶴子は先に部屋で準備をすると言う。

は何度も礼を陳べて、食べ終わったら部屋へ行くと告げた。

やんわりと笑う。



「榎木津さん、お馬をご覧になりたいのでしたわね」

「うん。だから二人でごらんになろうじゃないか」



だから食べなさいと榎木津は握飯をの口へ運んだ。

自分で食べられると告げるも虚しく、されるがままに握飯を租借した。

お陰で味が――よく解らなかった。

















千鶴子が浴衣の着付けをしてくれた。



「どれも私のお下がりという感じで申し訳ないけれど、」



下駄も巾着も拝借したが、日傘だけは持参した物があったのでそれを使うと告げた。

結局は百合の描かれた浴衣を着る事にした。

榎木津が玄関で待っていると云われたので、何とは無しに向かうと――




そこには完璧な出で立ちが――立っていた。

精悍な顔つきをしている――榎木津は――浴衣を着ていた。




「……――浴衣を、お召しになられましたのね」



顔が、火照る。

盆地の暑さのせいだと急に良い訳がましい想いが浮かんだ。

見送りに来た千鶴子が微笑んだ。



「丈も大丈夫そう。やはりお出しして良かったですわ」



平素ならそうだろうッ!と一吼えしそうなものだが、

なぜか榎木津は満ち足りたようにひとつ微笑んで返事を返した。

そしてを愛でるような目で見つめて、さ行こう、というたった一言で、

まんまとの手を攫ってしまった。

顔を緋に染め攫われるままに従順に従うを尻目に、

榎木津は千鶴子の目を見て口端で楽しげに笑って見せた。

















美しい白馬――稚児たち――見送るように、八坂神社を後にすると、

満足感に浸りながら四条通りあたりをつらつらと歩いた。

よく解らない細い道を抜けたり入ったりしては、露店を見て、

またくねくねと思うままに榎木津は歩く。

正直――どこに行くにも何をするにも手を繋がれているものだから、

とにかく心が浮き足立ってしまって落ち着いて見れた物では無かった。



「その浴衣はちゃんにとッても似合っているね」

「え…そん、な…――え、榎木津さん、には…敵いませんわ」



からかっているのなら止めて欲しかった。

事実、榎木津の着こなしは実に小粋で何とも秀麗である。

四条通りを闊歩する女という女は皆、すれ違い様に榎木津を振り返る。



「…――御婦人は皆、榎木津さんを目で追いますもの…ねえ、気付いてらして?」



縋るように見上げてみれば、待ち構えていた鳶色の目にしっかりと捕まってしまった。



「何を云うのだ!愚かだなあなんと可愛い愚かさだろうなあ。

 僕じゃあ無い君だ、君!おっさんも若者も男はみぃんな、ちゃんを見ているじゃあないか!」



すると、全く困ったものだッ!と叫んで、まるで子犬を抱き締めるように腕に収められてしまった。

頬に浴衣の合わせ目が当たる。

自分よりも幾分も背の高い榎木津の頬が、これでもかという程、頭頂部に摺り寄せられた。



「誰が見たって可愛いものは可愛いのだ。

 こんなにも可愛いもの、僕はちゃんか赤ちゃんくらいしか知らないぞう」



冷静になれる訳も無いのに、抱き締め方は徐々に子犬から赤ちゃん、

そして―…、活動写真のそれで観るような――至極の抱擁に変わったのが、しっかりと解った。

鼻孔に香る天骨の麝香――どうしても汗の香りと一蹴する事の敵わない、

抗えない蠱惑の香りが頭を麻痺させていく。

祭囃子も喧騒も遠くなる。



「…榎木津…さん…、お止しに……なって……」

「…――嫌か?」



想いの外…はそこだけは素直に首を振って否定を示していた。



「いいえ――決して嫌な訳では…無いのです。

 だからこそ――どうかお放し下さいな?

 私は逃げませんわ、ね?………礼二郎さん、」

「ッ……。――君は、ずるいッ」



の身体を解放した榎木津は、まるで拗ねたような仕草をして見せたが、

それでも微かに耳元が赤いような気がした。

――呪を…掛けてしまったのかもしれない。




いつだったか京極から聞きかじった言葉が脳に浮かんだ。




愛しい者の名は、呪。

愛しい者から呼ばれる名も――呪。




「…――ずるいのは…礼二郎さん…、の方ですわ」



もうどれ程自分の顔が茹で上がっているのか考える事も憚られた。

いっそこの大赤面に気付かない振りをし通した方が、よっぽど平穏でいられる気がした。

跳ねる心音ですら頭にガンガン響くようだった。

それでもやっぱり――小さな手は榎木津の大きな手に心地よく拘束されていた。



「――鴨川を歩いてみよう」



榎木津が優しく呟いた。

返事の代わりにひとつ頷き、元来た道を連れて行かれるままに付いて行く。

浮き足立って、夜も更けて、人が行き交って――。




迂闊――だった。




誰とも解らないが下駄のかかとを踏みつけられ、予期せぬ形でつんのめってしまった。

幸い手を繋がれていたから、見事に掬い上げられて、事無きを得たのだが――。




下駄は…いけなかった。

朱い鼻緒が、切れてしまっている。




がそれに気付き、自らの足下に手を伸ばすより先に――…、

榎木津は――膝を着いていた。




の小さな白い足を掬うように包むように…綺麗な指先を添わせると、足からそっと下駄を抜き取った。

その素足をなんの躊躇いもなく自分の片膝に乗せると、

下駄の鼻緒を確かめるように目を細めて引っ張ったりなぞったりした。

下駄を睨みつける榎木津をよそに――の胸は早鐘を打っていた。

こんなにも美しい男が自分のために膝を折って傅く様子など――誰が想像出来ようか。

夢でも見ているに違い無い。

そう思った瞬間、これは現だと云わんばかりの足首に小さな痛みが走った。



「ッ……、礼…二郎さん…あの…。

 私…、足首を…捻ってしまったようですわ…。少しだけ…痛むの、です」

「おやそれはマズイッ!ちゃん、さァッ!」



さあ、と言い放った榎木津は、膝を折ったままに背を向けて――どうやら負ぶさるつもりらしい。

は当たり前のように心底混乱し、躊躇った。

出来る事なら裸足で構わぬから自力で歩いて帰りたかった。

だが現状はどう考えても…これ以外の方法は見当たらない。

だが…でも…、と思考を巡らせていると、榎木津は有無も言わさずを背に掬い取ってしまった。

この男が人一倍我慢の無い人間だと失念していた。



「ちゃんとしっかりまるんだぞう」



気付いた時にはそれはもう見事に背負われていて、

はついに観念して榎木津の首に手を回した。

背が高い分、の目には普段自分に見えていない世界が広がって見えたような気がする。

榎木津の色素の薄い鳶色の髪は、提灯の光と同じ色に染まっている。

自分よりも随分と逞しく大きな背中に身を添わせて、

言い表せぬ感情と緊張が全身を駆け巡り、まるで耳がわんわんと鳴るようだった。

背負われた姿を見られるのが恥かしいのでは無い。

薄い布を隔てた所に、榎木津の美しい肉体が広がっているのだと思うと、

居た堪れない愛しさに恥ずかしくなるのだ。

馬鹿な考えを捨てようと必死になればなる程、離れていくし脱線もする。

苦し紛れに「重たいでしょう、ごめんなさい」と呟くと、

榎木津はうふふと笑い全力で否定せんがために軽やかに走って見せた。

はより一層榎木津の首にしがみ付いた。

















家に帰り着くと榎木津はすぐさま、冷たい水にの足首を突っ込んだ。

もともと軽度の捻挫で済んでいたのだろうが、

無理を押して歩かなかったお陰で腫れも無いし、痛みもすぐに引いた。



「大した事無くて良かった」



榎木津は満足そうに笑った。

離れの縁側でやれ冷やせやれ氷だとやっていたので、千鶴子は夕飯を離れへ持ってくれた。

部屋には先刻まで確かに京極堂が居たはずなのだが…不思議な古書肆は何時の間にか姿を消していた。



「ああ、ちゃんはそこにいなさいッ。縁側に運ぶから」



御膳にあり付くため、立ち上がろうとしたに、榎木津はすかさず釘を打った。

その代わりに、夕涼みィ夕涼みィとよく解らない歌を歌いながら、

榎木津は千鶴子の運んでくれた夕飯を縁側に並べた。

人の出入りがあるとおかずの品数も増えるのだろうか――どれも美味しそうである。




――抱き締められた事、

――跪かれた事、

――背に負ぶわれた事、

…――名前で、呼んでしまった事――。




どの事柄も何度でも確認しなければ夢も同然の出来事だったから、

はそれらを打ち消すように必死に食事と会話に没頭した。






腹も膨れ、いい加減食事も済んだ頃――榎木津はわざわざ改まるように静かに口を開いた。



「…――僕がを好きなようにも僕が好き」

「ッ……やめてっ!お止めに…なって……、…卑怯、です…わ…」



は赤面した顔を掌で覆い俯いて顔を伏せてしまった。



…――諒解ってはいたのだ。

どのみちばれてしまうのだと……。

だって――…、榎木津には――視える、から。



そんな愛らしい反応を見過ごしてやるのは、至難の業ではあったが…、

榎木津は今はまだいじらしいその様に甘んじてやるのも全然悪くないなと思った。



恥らいに俯いてしまったの頭をぽんぽん、と撫でてやると、

は恐る恐る顔を上げて、少し涙を溜めた瞳を揺らしながら…榎木津の瞳の中に溺れてしまった。

榎木津はその端正で優美な顔を綻ばせると、の額に掛かる髪の毛をそっと手の甲で払いのけ、

露出した丸みにそっと口吻けた。

事態が飲み込めず、ぱくぱくと喘ぐ彼女に、ちょっとしたおまけだと言わんばかりに、

榎木津はの足首を再び繊細な仕草で捕ると――、

形良い完璧な唇で、そっとのくるぶしに口吻けた。



「…神と共に歩くためのお呪いだ」






嗚呼…貴方の呪に―――掛かってしまう。


































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「榎木津に跪いて鼻緒を結んでもらいたいよね」

という妄想からこんなんなりました。夏祭り、いいですね。

あ、京極堂、空気読める子です。

20090820 呱々音