「二人で行ってらっしゃい」
暑中、京都。 祇園祭の準備やら助けやらのために、千鶴子は毎年実家の手伝いに京都に里帰りをする。 通例通りならば、千鶴子は夫である仏頂面の古書肆・京極堂こと中禅寺秋彦を、独り東京に残して帰郷する。 連れて来たとしてまさか手伝わせる訳にもいかぬし、まず朴念仁は祭りの為に働く気もないのだろう。 一家総出のこの伝統的な祭においては、はなから役立たずだと解っている。 だからこそ、千鶴子は猫と亭主に留守を任せ、京都に馳せ参じる――はずであった。
京極堂と探偵―榎木津礼二郎―…、そして麗若き薬師――の姿があった。
うちの人は私の部屋にぶち込むとしても…どこも部屋がいっぱいなんです」
「あら、おおきに」
狭いでしょうが…さんは私の部屋に。ごめんなさいね」
千鶴子と京極堂が旅立とうというまさにその時、 薬師の手を引いた探偵が現れた所から顛末は発している。
自分の薬店の仕入先の御仁が、中国漢方薬膳の珍妙な本があるというので、 京極堂はを介してその本を手に入れる――。 そういう手筈だったからこそ、は手に入った本を持って京極堂へと向かうつもりでいたのだ。 しかしたまたま店に現れた榎木津――これも別段薬が欲しい訳ではなく、 そのものに用事があって立ち寄ったのだ。 榎木津はチェック柄のズボンに変てこな襯衣を合わせ、 相変わらず自信満々での前に立ちはだかった。 首下に巻いたネクタイは蝶結びになっていた。 “視た”彼は概ね察しが付いたようで、気が付けばは手を引かれ京極堂に居た。 よそ行きの服を纏った中禅寺夫妻に向かって、榎木津は全力で――駄々をこねた。
「――ああ君。本が届いたのだね。わざわざ届けさせてすまなかっ」 「京極ッ!この僕も連れて行けッ」 「僕は仕事で行くのです」 「識っている!蔵あさりをするんだろう。 おい千鶴ちゃんっ少なくとも僕は京極よりずッと役に立つぞッ!」
この場合、言葉どおりに取ってしまえば――それは絶対、嘘である。 榎木津は自分が神だから居るだけで役に立つと言っているのである。 何の事は無い、京極堂に比べればいるだけでマシという程度の役得を言っているだけである。 暴走する榎木津を止められるはずも無く、ただただ硬直するばかりを尻目に、 千鶴子は慣れた様子で苦笑した。
もちろん泊まりの用意など何も持っては居ない。 汽車の時間もあるから、取りに帰る暇も無かったのだ。 榎木津は日々転がり込んでいるので、中禅寺邸をほじくり返せば、 案外服だの下着だのが2、3着は出てくる。 しかしの服などある訳もないから、千鶴子が工面すると快く申し出てくれた。 榎木津に強制参加させられたは千鶴子の優しさに甘える他無かったのである。
どうやら本当に仕事があるようだった。 千鶴子が、西陣界隈の名士の蔵から本が大量に出たから処分して欲しいと頼まれたのだと教えてくれた。 やはり榎木津はただそこに居るだけであった。 頼まれでもすればもしかしたら動くのかもしれないが、 離れの縁側に脚を投げ出して、この家の猫と戯れて遊んでいる。 はと言えば、夏バテか――食が細くなって困っていた千鶴子の母親に漢方処方の相談を受け、 すっかり気に入られてしまったらしい。 もはや飛び入りの邪魔者というより客扱いである。 とは云え、人手が足りないから大した構いが出来る訳でも無いから、 とにかくこの家を好きに使ってくれて良いと賜ったのだった。 手持ち無沙汰のは大人しく離れに下がり、 早速この環境に馴染みつつある榎木津の横に居る事にした。 離れとは云っても、物の出し入れがあるのだろう。 たまに家の者が忙しなく横切っては、女は皆、榎木津を見て頬を染めた。 がそれを見て良い知れぬ何かを感じるより早く、榎木津は何も言わずの手を握っては、 ぎゅだのぱあだの訳の解らない声を発した。 決して不快ではないのだが、それではいちいち心臓が持たぬから止めて欲しいとは切に懇願した。
それを何個か取り分けて、千鶴子が持ってきてくれた。
あら…やっぱり惣は懐きましたね」
榎木津はよく解らない悲鳴を上げると実に美味そうに握飯に食らいついた。 は涼しげな陶器に注がれた麦茶を一口飲んだ。 冷たい麦茶が喉に染みた。
「え?」
榎木津は祭が見たくて、付いて来たのだから。
は何度も礼を陳べて、食べ終わったら部屋へ行くと告げた。 やんわりと笑う。
「うん。だから二人でごらんになろうじゃないか」
自分で食べられると告げるも虚しく、されるがままに握飯を租借した。 お陰で味が――よく解らなかった。
結局は百合の描かれた浴衣を着る事にした。 榎木津が玄関で待っていると云われたので、何とは無しに向かうと――
精悍な顔つきをしている――榎木津は――浴衣を着ていた。
盆地の暑さのせいだと急に良い訳がましい想いが浮かんだ。 見送りに来た千鶴子が微笑んだ。
なぜか榎木津は満ち足りたようにひとつ微笑んで返事を返した。 そしてを愛でるような目で見つめて、さ行こう、というたった一言で、 まんまとの手を攫ってしまった。 顔を緋に染め攫われるままに従順に従うを尻目に、 榎木津は千鶴子の目を見て口端で楽しげに笑って見せた。
満足感に浸りながら四条通りあたりをつらつらと歩いた。 よく解らない細い道を抜けたり入ったりしては、露店を見て、 またくねくねと思うままに榎木津は歩く。 正直――どこに行くにも何をするにも手を繋がれているものだから、 とにかく心が浮き足立ってしまって落ち着いて見れた物では無かった。
「え…そん、な…――え、榎木津さん、には…敵いませんわ」
事実、榎木津の着こなしは実に小粋で何とも秀麗である。 四条通りを闊歩する女という女は皆、すれ違い様に榎木津を振り返る。
僕じゃあ無い君だ、君!おっさんも若者も男はみぃんな、ちゃんを見ているじゃあないか!」
頬に浴衣の合わせ目が当たる。 自分よりも幾分も背の高い榎木津の頬が、これでもかという程、頭頂部に摺り寄せられた。
こんなにも可愛いもの、僕はちゃんか赤ちゃんくらいしか知らないぞう」
そして―…、活動写真のそれで観るような――至極の抱擁に変わったのが、しっかりと解った。 鼻孔に香る天骨の麝香――どうしても汗の香りと一蹴する事の敵わない、 抗えない蠱惑の香りが頭を麻痺させていく。 祭囃子も喧騒も遠くなる。
「…――嫌か?」
だからこそ――どうかお放し下さいな? 私は逃げませんわ、ね?………礼二郎さん、」 「ッ……。――君は、ずるいッ」
それでも微かに耳元が赤いような気がした。 ――呪を…掛けてしまったのかもしれない。
愛しい者から呼ばれる名も――呪。
いっそこの大赤面に気付かない振りをし通した方が、よっぽど平穏でいられる気がした。 跳ねる心音ですら頭にガンガン響くようだった。 それでもやっぱり――小さな手は榎木津の大きな手に心地よく拘束されていた。
返事の代わりにひとつ頷き、元来た道を連れて行かれるままに付いて行く。 浮き足立って、夜も更けて、人が行き交って――。
幸い手を繋がれていたから、見事に掬い上げられて、事無きを得たのだが――。
朱い鼻緒が、切れてしまっている。
榎木津は――膝を着いていた。
その素足をなんの躊躇いもなく自分の片膝に乗せると、 下駄の鼻緒を確かめるように目を細めて引っ張ったりなぞったりした。 下駄を睨みつける榎木津をよそに――の胸は早鐘を打っていた。 こんなにも美しい男が自分のために膝を折って傅く様子など――誰が想像出来ようか。 夢でも見ているに違い無い。 そう思った瞬間、これは現だと云わんばかりの足首に小さな痛みが走った。
私…、足首を…捻ってしまったようですわ…。少しだけ…痛むの、です」 「おやそれはマズイッ!ちゃん、さァッ!」
は当たり前のように心底混乱し、躊躇った。 出来る事なら裸足で構わぬから自力で歩いて帰りたかった。 だが現状はどう考えても…これ以外の方法は見当たらない。 だが…でも…、と思考を巡らせていると、榎木津は有無も言わさずを背に掬い取ってしまった。 この男が人一倍我慢の無い人間だと失念していた。
はついに観念して榎木津の首に手を回した。 背が高い分、の目には普段自分に見えていない世界が広がって見えたような気がする。 榎木津の色素の薄い鳶色の髪は、提灯の光と同じ色に染まっている。 自分よりも随分と逞しく大きな背中に身を添わせて、 言い表せぬ感情と緊張が全身を駆け巡り、まるで耳がわんわんと鳴るようだった。 背負われた姿を見られるのが恥かしいのでは無い。 薄い布を隔てた所に、榎木津の美しい肉体が広がっているのだと思うと、 居た堪れない愛しさに恥ずかしくなるのだ。 馬鹿な考えを捨てようと必死になればなる程、離れていくし脱線もする。 苦し紛れに「重たいでしょう、ごめんなさい」と呟くと、 榎木津はうふふと笑い全力で否定せんがために軽やかに走って見せた。 はより一層榎木津の首にしがみ付いた。
もともと軽度の捻挫で済んでいたのだろうが、 無理を押して歩かなかったお陰で腫れも無いし、痛みもすぐに引いた。
離れの縁側でやれ冷やせやれ氷だとやっていたので、千鶴子は夕飯を離れへ持ってくれた。 部屋には先刻まで確かに京極堂が居たはずなのだが…不思議な古書肆は何時の間にか姿を消していた。
その代わりに、夕涼みィ夕涼みィとよく解らない歌を歌いながら、 榎木津は千鶴子の運んでくれた夕飯を縁側に並べた。 人の出入りがあるとおかずの品数も増えるのだろうか――どれも美味しそうである。
――跪かれた事、 ――背に負ぶわれた事、 …――名前で、呼んでしまった事――。
はそれらを打ち消すように必死に食事と会話に没頭した。
「ッ……やめてっ!お止めに…なって……、…卑怯、です…わ…」
どのみちばれてしまうのだと……。 だって――…、榎木津には――視える、から。
榎木津は今はまだいじらしいその様に甘んじてやるのも全然悪くないなと思った。
は恐る恐る顔を上げて、少し涙を溜めた瞳を揺らしながら…榎木津の瞳の中に溺れてしまった。 榎木津はその端正で優美な顔を綻ばせると、の額に掛かる髪の毛をそっと手の甲で払いのけ、 露出した丸みにそっと口吻けた。 事態が飲み込めず、ぱくぱくと喘ぐ彼女に、ちょっとしたおまけだと言わんばかりに、 榎木津はの足首を再び繊細な仕草で捕ると――、 形良い完璧な唇で、そっとのくるぶしに口吻けた。
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「榎木津に跪いて鼻緒を結んでもらいたいよね」
という妄想からこんなんなりました。夏祭り、いいですね。
あ、京極堂、空気読める子です。
20090820 呱々音