もうずっと長い間、私達と彼女の関係は崩れる事を知らなかった。 知り合った切っ掛けを覗けば、然した脈絡も無ければ、不穏な逸話も無い。 例え他人様にとっては"有った"としても、隠し立てして他言出来ぬ訳でも無い。 とにかく私達は―…、少なくとも私は、彼女…との友情を、心穏やかに慈しんでいる。 知り合ってもう随分になるか…所謂"馴染みの仲"という奴だ。 旧制高校時代、ひょんな事から交流を持つ事になって以来、 はまるで、目に入れても痛くない妹と云った感じだった。 尤も、私は妹という存在を持ったことも無いし、それこそ何処ぞの仏頂面の妹、敦ちゃん位しか 知らないのだが…しかしそれでもこの見目美しいお嬢さんは、私達の懐こく聡明な妹の様に思えた。 その崩れる事無き関係も、ここ数年のの態度を見ていると若干の揺らぎが生じている様にも思える。 予兆は、有った。 ただその始まりというのは酷く薄ぼんやりで、記憶に残るような大きな事物では無かったのだ。 だから私は、ここまで不穏な様子を見せる様になってしまったを見ると尚更不思議で仕様が無かった。 否、傍から見れば別段変わった様子など見て取れないだろう。 しかし本当に時折垣間見せる、あの何処か思い悩んでいる様な―辛そうな―表情を見せられると、 流石の私でもどくりと心臓に衝撃を覚え、と同時に妹の様に大事なのそんな姿は、見ていられなかった。 第一は私より一寸だけ歳下で、まして哀愁を漂わせるには随分と若過ぎる。似合わない。 以前とは比べ物に成らぬ程、苦しそうな溜息を吐くようになった。 ふとした時、何か得体の知れぬ存在に潰されてしまいそうに考え込んでいる。 今まで見知っていた甘やいだ若さに何処か似遣わしく無い、ぞっとする程美しい表情を浮かべていたりする。
そして私はそんなの状態を見てふと思う―… 日が傾けば、日中の暑さも大分ましになる。 しかしそれにはまだ及ばず、夕方の一寸手前の時刻に中野に降り立った。 今日も私は、例によってこの眩暈坂に酷い酔いを覚え乍ら、うろうろと坂道を上る。 ―何度此処へ来ても、こんなにも足元が覚束ない― 肌から滲み出す汗が鬱陶しい。兎に角、早くこの坂の終着…京極堂へ辿り着いてしまいたかった。 幾分無理矢理、坂を振り切った。 母屋の玄関を訪ねるか、店の暖簾を潜るか…少し悩んだが、結局店の方から訪ねる事にした。 上手いのか下手なのか良く解らない字で書かれた『京極堂』の看板を潜る。 この場所の空気は日が差さぬ分しんと重くなり、少々の埃と蔵に入った時独特の香りが鼻を突いた。 この古書屋の店主兼家主・中禅寺秋彦は、矢張り店先に立つ気は毛頭無いらしく、 奥からこちらを一瞥すると何も云わず再び目線を手元の和綴じの本に戻した。 私はその様な態度を気に掛ける事も無く、そちらに上がろうと足元を見た。 既にそこには脱ぎ散らかしたような大きな下駄と…慎ましやかに揃えられた小さな下駄があった。 ―もう来ていたか― 私が靴を脱ぎ始めると、京極堂―少なくとも僕は彼を屋号で呼ぶ―が重い腰上げ、 親兄弟親戚が全員死に絶えた様な仏頂面で私の前に立ちはだかった。 私がそれに気付き顔を上げ目線がかち合えば、明らかに蔑んだ様な一言で出迎えられた。 「漸く来たな。君が最後だよ、関口君」 店を閉めるには随分と早い時間だったが、古書屋は今日ばかりは早々に業務を終えたかったのだ。 私達は花火を見に行くという約束をしていた。 「すまなかったよ、でも…これでも僕は一応、定時よりも早く着いたはずだ」 別に遅刻した訳では無いのだ。 しかし訴え空しく奥の部屋から溌剌とした声で一喝された。 「いや!猿は遅刻だ!阿呆だなあ!と僕はもう随分早い時間からここで関君の到着を待っていたのだ! いくら君が猿だからと言って、ここまで協調性が無いものとは思っても見なかったね!」 「そんな―僕は、」 「…しかし早過ぎると言うのも困り物ですよ、榎さん」 遮るように京極堂が補足した。決して私を擁護した訳では無いのは解っている。 それでも私は一寸ほっとした。 この云われ様だと、榎木津は私などより相当早い時刻から京極堂に転がり込んだらしい。 京極堂はすっかり店仕舞いを終えたらしく、靴を脱ぎ突っ立ったままの私と並ぶと、 早く入り給え、と嫌そうに即した。 私は異を唱え掛け諦めたはずだったが、奥の座敷で榎さん異、榎木津礼二郎が大の字で寝転がっている姿を見たら、 反論の少しもしたくなった。 「榎さん、僕だって約束の時間より早く来たんだ」 大概の訪問の場合、いつも私に与えられている定位置の座布団に腰掛けながらそう云った。 「そうよ礼ちゃん、巽さんはちいとも悪くないわ」 当たり前の様に既にそこに居たの存在に、私はやっと気付いた。 榎木津の大の字への立腹に、少々夢中に成り過ぎていた様だ。 の手には朱い盆が持たれ、私に冷たい麦茶を出しながら、礼ちゃんと呼ばれた大きな子供をあやす様に云った。 私は正直、もう榎木津の大の字などどうでも良くなっていた。 は夏に似合わぬ程色素薄く白いその肌に、黒地の浴衣を合わせていた。 柄は桜、帯は赤―…うん矢張り、には和装が大変似合う…そんな風に思って、笑った。 「悪いとか悪くないとか僕はもうどうでもいい!待ち草臥れた!くたくたくた、だ!さあ!早く出かけよう!」 勢い良く身体を起こした榎木津は、黙っていれば大層美しいその顔を輝かせて催促した。 今日のために着たのであろう榎木津の浴衣は横になったせいか、少し着崩れていた。 それを見てくすりくすりと苦笑するの声が、耳に心地よかった。 善く善く見れば、何時も着流しの着物を着ている京極堂も今日は濃紺の浴衣を着ていた。 私はと云えば…何時も通りの草臥れた白襯衣姿だ。 別段気にしないが、それに興味を持ってしまった榎木津が、京極の浴衣を借りれば良い!とこの場を煽った。 私は面倒くさそうに京極堂の顔を盗み見た。 「でも…そうね。礼ちゃんの云うのも一理あるわね。折角なら皆で浴衣っていうのも…悪くないんじゃないかしら」 私の視線との言葉を尻目に、京極堂は相変わらず眉間に深く線を刻みながら、手元の本の字面を追っている。 しかし意外な事に京極堂はその愛読書を閉じると、片眉を吊り上げ私を凝乎と睨んだ。 「………仕方がない。来給え、関口君」 京極堂は溜息も早々に、酷く大儀そうに立ち上がると襖を開け更に奥の部屋へと私を連れて行った。 ―これは驚いたな― 別に京極堂は吝嗇ん坊でも何でもないのだが…この男が所謂面倒事をすんなりと受け入れるとは… ―嗚呼矢張り、の一声の効果は絶大なのだ― はて真意はどういった物なのか―…と、間違ってもそんな事を聞ける訳は無かった。 生憎私はそんな度胸には恵まれて居ない。 ―しかし― 京極堂は桐の箪笥を覗き、私に着せても問題無い手頃な浴衣を探している。 こういった切っ掛けと場所と機会が用意されるのも…なかなか珍しいでは無いか。 私は迷った挙句、ずっと疼々と疑問に思っていた事を口に出した。 「なあ京極堂…」 京極堂はそんな切り出し方にも、微塵の興味も示さず動かず淡々と突き放す。 「下らない質問なら受けないぜ」 この男に憎まれ口を叩かせれば…世界一だ。 「下らなく何か無いよ。むしろ切実だ」 京極堂は探る手元を睨んで何も言わない。 「…僕はずっと、気になっていたんだけれど―…その、君は…いや、は…」 「関口君、君にはこれで十分だろう。さあ向こうで人を待たせているんだ。早く着替えるんだね」 京極堂はそれだけ云うと、ぱたんと襖を閉め出て行ってしまった。
私は何故だか…煙に巻かれた様な気持ちになった。
祭囃子が耳を抜ける。 朱に橙、ほんのりと賑わいを照らす屋台と提灯が相変わらず大変効果的に祭りらしさを演出して目に眩い。 榎木津とが私と京極堂の数歩前を歩き、きゃいきゃいとはしゃいでいる。 やれたこ焼きだの、やれ林檎飴だの―… 一緒に行動している筈なのに榎木津の胃袋には沢山の祭の風物詩が消えていく。 「姫!次は綿菓子だ!」 榎木津はの事を"姫"と呼ぶ。 「礼ちゃん、私もうお腹いっぱいよ」 「そうか!じゃあ半分こだな!はんぶんこ!ああそれと!烏賊も食べなくっちゃならないね!」 私の隣の京極堂と云えば…どうやらそこそこ、いや…かなり機嫌が良い様だった。 相変わらずの仏頂面に何ら変わりは無いのだが、少なくとも私にはそう見えるのだ。 「巽さん秋彦さん、玉蜀黍とか烏賊は食べる?」 私はじゃあ烏賊を、と一言返し、それに倣う様に京極堂も頷いた。 「じゃあ私達一寸買ってくるわね」 が嬉しそうに笑う。 カラコロと軽快な下駄の音が遠くなる。 私は少し、面食らっていた。 そうだ…気のせいなんかじゃない…矢張りだ…矢張り、京極堂は…俄かに笑っている。 「随分楽しそうだな」 「ああ…そうだね。榎さんじゃ在るまいし、あんなにはしゃいでいたら転ぶのが落ちだ」 ―いやそうでなくて…僕は君に云ったのだが―京極堂はそうは取らなかったらしい。 そういえば気付くと私の手には、榎木津の買った色取り取りの玩具たちが持たされている。 ―これではまるであの大きな子供の親爺では無いか― 榎木津とは両の手に1本ずつ、計4本の烏賊を持ち嬉しそうに持って帰ってきた。 「さあ!関君!君には似合わない位立派な烏賊だぞ!遠慮なく食べ給え!」 人に荷物を括り付けておいて酷い云い様である。 「はい、秋彦さんの分、」 はそう云って一層華やかな笑顔で京極堂に烏賊を手渡した。 きっと京極堂はありがとう、と言いかけた…のだろう。 だがそれは凡て発せられる事は無かった。 被さる様に鮮やかな花火が夜空を照らしたのだ。 ドン、ドン、ドン、パララララと夏で一番大きな花が瞬く。 榎木津とは―もちろん皆そうなのだが―それはそれは嬉しそう、楽しそうに天を仰いだ。 わあだのきゃあだのと漏らしたが…直にその口は閉ざされ、唯うっとりと空を見上げた。 私と京極堂の数歩前で…少し別世界とも思える人形の様な面相をしているで在ろう男女の、丁度旋毛が見える。 人の後頭部を見ていても仕方が無い、私も負けじと花火を堪能する。 嗚呼今この瞬間、何もかもが綺麗だ。ぼうとする。 に平行して立っていた榎木津が、ふいにすっと一二歩退り、私の横に並んだ。 は…どうやら夢中で、榎木津の行動に気付いていないらしい。 榎木津はちらりと京極堂に意味有り気な視線を向けた。 そんな遣り取りをする二人に挟まれた私は、訳が解らず榎木津と京極堂の顔を交互に見る。 何か企む様な、それでいて即す様な笑みで京極堂を見る榎木津―。 当の京極堂の視線は―…動かない。 ―嗚呼、そうだ。 そうだった…先程からこの男の視線は、一時も動いては居ないのだ―から。 私は今まで輪郭の明瞭する事の無かった大切な事に気付き、何か云おうとした。 しかしそれより早く、遮る様に、京極堂が口を開く。 「…関口君、僕は彼女が好きだよ」 花火の音と、同時だった。 ぽつりと、しかし明瞭と―…それだけ述べると、京極堂は足を前に出す。 愛らしい子供の様な笑顔で夢中になって空を見上げているの横に、京極堂が並ぶ。 するとは実に都合善く、京極堂に気付く。 「とっても綺麗…、ね、秋彦さん」 美しい顔ではにかむ様に笑う。 ―京極堂が優しい声で云う。 「ああ次が最後の尺玉だね」 それを聞いたが再び夜空に顔を戻す。今までの花より、一層大きな花が咲く。 ―京極堂が…優しい声で云う。 「―…君が好きだよ」 刹那零れ落ちそうなくらい大きなの目は驚きによって見開かれた。 目の前の二人の姿は京極堂の云ったその一言…たった一言だけで、この世の物とは思えぬ程―…唯々、美しかった。
―嗚呼良かった―。
彼女の憑き物―恋―は、今、落ちた。 |
えー…ハイ!!やっちゃった感が…(補足部分多数)
割と…彼らのちょびっと若い頃の話です。
まあどうであれ!確実に大学以降・姑獲鳥以前…です。
関くんは「憑き物落し」という生業をまだ知らないです。
これ見て「ああー結婚っていいなー」とか思えばいいよ(投げやりな支持)
榎さんも関くんもお兄ちゃん的な存在だったり、
逆にヒロインがお母さんみたいな存在になったり(笑)
とにかく知り合った経緯は今回はしょりますが(いつか書きたいです)
中禅寺とヒロインの共通点は少なからずある…そんな感じです。
わっかりにくくてごめんなさ…!(殴)
…人間出来ないことをすると、こういう結果になります。切腹。
20071022 狐々音
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