重大な任務の話をしようというこの期に及んで、

一向に出て行こうとしない女中が気に掛かり、嘉藤が一瞥する。

すると結城は目線もくれずただ窓の外を真っ直ぐに見据えながら、

つまらなそうに言った。


「それのことは気にしなくて良い」


嘉藤は納得せざるを得ない。

しかし女中はそんな加藤の警戒心を飼い猫のように察知していた。

一礼すると、盆を抱え部屋を出て行った。

結城は柄にもなく、とても短い溜息を吐いた。


「あれは喋れない――私を庇って声を喪ったのだ。

 進んで私の身代わりとなり、屈辱的な拷問の末、喉を裂かれた。

 プロならまず情報を引き出すまでそんな下卑た真似はしない。

 だが下賎な輩に成り下がる者も、あのように逼迫した窮地では少なくなかった」

「なぜそのような話を、私に」


明らかに話し過ぎだ。

こんな結城を、嘉藤は未だかつて見た事が無い。

杖の先が、トン、と音を立てる。


「君は情にもろい。

 いずれ役に立つ話かもしれない」


結城の口端があやしく笑っているような気がした。

嘉藤は彼女の細い首にしっかりと巻かれた青いスカーフを思い出していた。

聞けば今では喪った声帯を補うように喉を震わせて、

しゃがれた醜く短い声が、吐息のように微かに出るのみだと言う。

故に喋ることは、ほとんど皆無であった。

あのように冴え渡る冷たい美貌を持っていれば、尚更なのだろう。

醜さを語る必要など、任務を離れた身ならば無いのだ。


「私を庇った時点で、あれはスパイ失格。

 所詮その程度の器だったのだ。

 私への情にほだされ、そんな馬鹿げたモノに負けたばかりに」


嘉藤は小さな違和感を覚えた。


「ではなぜ助けたのですか」


嘉藤は結城が責任感を感じたがため、救助したのだろうと思った。


「私がいつ助けたと言った。

 あれは自力でここへ戻ったのだ。

 情報を持つ私を逃がし、拷問を受け、音信は途絶えた。

 機関の見解では当然死んだものと思われていた。

 だか3ヶ月後、あれは私の元へ帰ってきた――瀕死の状態ではあったが」

「それならば敵に寝返ったという可能性が」

「だとしたらまたそれを利用するまでの話だ」


淡々と結城は続ける。


「奇妙な事だ。

 言葉で語らずとも私たちには意思疎通の手段が有る。

 例えばチェス。

 あるいは窓辺に生けられた花の色、形、種類、角度にも意味が篭められている。

 元々私はあれの《全て》を理解している。

 女は等しく情に弱い生き物だ。冷静な判断力がある生物とは言いがたい。

 スパイは常にそれを利用する。不審な行動を見破る方が容易い。

 生死不明で敵の手中に居るよりも、手元に置いておくのが一番安全だ」

「……つまり結城中佐自ら、監視なさっている、ということですね」

「解釈は自由だ。

 ――では気をつけて行ってきたまえ。

 これは私からの餞別だ。持って行くといい」


――“ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険”。

他愛もない英国文学書である。

嘉藤は今の話と、この本に在る結城の意図がなんなのか早速思案しつつも、

あとはもう何も言わず、一礼をして部屋を出て行った。






出て行った嘉藤を見送ったまま黙していた結城は、

しばらくそうして一点を見つめていたが、杖を床に二度突き鳴らすと、

まるで忍か黒子のようにするりと扉から女中が入っていた。


「――どうした。顔が赤いぞ」


結城はの気持ちを十二分にも知っていながら、そんな言い方をする。

は首を振った。

実際とっくにスパイの肩書きは失っていた。

自ら棄てたのだ。

ほとんど死にかけの状態で戻ったの枕元で、

お前は優秀すぎたが故にもう役に立たない、と言い放ったのも結城だった。

以来、は結城の身の回りの世話をする《ただの》女中として

側にいる許可を貰っている。

日はとっくに暮れていた。

コート掛けから結城の外套を取り、広げて背に当てる。

幾分背の高い痩身は、杖を持ち替えながらそれに腕を通す。

帽子を渡すとき、必ず少し互いの手が触れるのが好きだった。

も隣に掛けてある自らのコートを着ると、部屋の扉を開け、

先に出てゆく結城の後ろを静かに歩いた。

車中では結城も言葉を発しなかった。

ただ帰路までの20分あまりの距離を、沈黙だけが満たしてゆく。

はいつも星を見ていた。

寒空の星は一層輝く。

なぜだかひどく悲しく思える、その冷たい美しさが――。






帰宅すると結城はいつも1時間ほど書斎に籠もるので、

その間には夕餉の炊事をこなす。

家には2人しかいないので、同じ食卓で食事を摂る。

一番遅くまで家事を熟し、一番早く起きる。

独り住まいの結城がただ仕事に打ち込めるように、掃除も洗濯も炊事も、

D機関での目立たぬ女中仕事さえも、は嫌な顔ひとつせず、

影のように物言わず、淡々とこなした。

そんな結城がと床を共にすると提案してきたのは、つい昨日のことだった。

もちろん今までだって、結城に求められれば身を差し出してきた。

それこそがの唯一の歓びだと言っても過言ではなかった。

だがそれも結城からそう望まれたときだけ、が寝室を訪れる形であった。

はしたない女だと思われているのかもしれない。

実際、はあの酷い拷問で、身体中の傷はもとより

一時は性器の形まで大きく変形してしまった。

穢れていると言う自覚は誰よりもあった。

だが結城はそんなの気持ちを知っていながら、敢えて無視を決め込んだ。

言うよりも早かった。

丁寧に、くまなく愛されることで、は初めて生きていることを実感出来た。


「お前は決して安くない女だと自負しながら、私にだけは身体を開く」


自惚れだと一蹴出来ぬその言葉が疎ましい。

いつだって結城の掌で転がされる。

――だがそれが好い。

が結城の寝室の前で立ち尽くしていると、主は見かねたように自ら扉を開けた。


「何をぐずぐずしている――入れ。

 いつまでもそんな薄手の夜着姿で立たれていたら風邪を引く」


ルームランプと暖炉のオレンジ色の弱い光が寝台の奥から闇を照らし、

洗い晒した髪がこぼれ落ちる無防備な結城はただただ美しかった。

結城はの肩を撫でる。


「やはりな。冷えている。

 布団に入りなさい」


頷き、冷たい布団に足を滑り込ませる。

同じように布団に入った結城が、湯たんぽを蹴って寄越した。

は思わず笑ってしまった。

“あの”泣く子も黙る結城中佐が。

湯たんぽを蹴って――しかも、こんな私のために。

彼女の心の声を聞いたように、結城は驚くほど穏やかな声で囁いた。


「――もう良い…お前はそうやって笑っていろ」


腕が伸ばされたかと思えば、容易く捕まってしまう距離。

力強く抱きしめられて、は思わず息を止めた。

――心臓が飛び出してしまう。


「皆の言うように、もしお前がこの国を裏切るのなら、

 私はお前を殺す。

 だがお前はもう忘れてしまうべきなのだ。

 スパイという生き方を。

 だからこそ――私はお前と仮初めの夫婦になる」


は顔を上げる。

薄明かりに妖しく光る彼の目を見つめて。


「とは言えこれもまた楽な道ではない。

 私は愛を信じない」


返事の代わりに、は結城の胸に顔を埋め、

ありったけの力で抱きしめ返した。

まだ結城にとって自分という人間に使いようがあるのなら、それで構わなかった。


「やはり、わからぬな――少しは償えたのだろうか」


彼女がそんな償いなど、最初から欲していないことは重々知っていた。

だが結城は――悲しいことに――という孤独な女を捨て置けなかった。


。お前はただ変わらず、私のことを慕っていれば良い」


顎をすくい、唇を奪えば答えが返ってくる。

従順に諾と唄うように吸い付いてくる唇の奥から、鈴の音は漏れずとも。




















































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映画版の結城さん、結構美味しいです。

“ロビンソン・クルーソー”は原作のネタです。

建前か本音かはさておき、戦国的というか夫婦=人質、の図式で

周囲が騒いだら納得させる、みたいなことでしょうかね。

結城が逆に疑われる可能性だって無くは無いのですけどね。

ようつまり一度飼ったら最後まで責任を持って飼いきる。

という部分に、情があるだのないだのでは片付けられない要素が芽生えてた…なんてな。

お粗末様でございました。

20160114 呱々音