汗をかくライムのペリエ。

シーツに染み込んだデュランスの香り。

潤んだ艶色をしたボルドーのペディキュア。











私は変わらない。

好きな物は、変わらない。

私は自分自身の心地よさの正体を知っている。

よく理解している。

ずっと変わらないのに――。

私のこれから先の人生には永遠に決定的な欠落が存在する。

埋めようとしても適わない。

《何か》で代用するなんて不可能だ。

貴方は、いない。

貴方の存在だけ――私の人生に、足りない。

















































「それからドム――パリに来たなら《彼女》に会っておくと良い。

 この間も夕食会で会った時、君の事を気にかけてた」


マイルスの掛けたその一言に、コブは素直に頷いた。


「ええ。もちろんそのつもりです。

 《彼女》にも仕事を手伝ってもらいたい」











パリ――ここは比較的裕福な地区だ。

治安も良い。

有名な花屋も多い。

だからこそ《彼女》はここで暮らしているのだろう。

《彼女》の好きなミモザの花と白いバラを買って、アパルトの階段を上る。

うんざりする程長い。

でもおそらく《彼女》にとってはパリを一望するための対価にすぎない。

ノックを3回。呼び鈴も鳴らす。

開かれた扉の向こうには《彼女》が――が、居た。

小柄だが、手足はすらっと長い。

瞳はダイアモンドをはめ込んだみたいに輝いている。

それを縁取るように並ぶ、長い睫毛。

少女のように可憐でもあり、品の良い大人の女性でもある。

そして相変わらず、美しかった。




「やあ――

「ドム――久しぶりね。入って頂戴」




買って来た花を渡すと、は幸せそうに口端を上げた。

洗面台の桶に水を溜めるとそこに花を浸けておき、

客人を持て成すために慣れた様子で湯を沸かし出した。

白い床、青いカーペット、花柄のリンネル――。


「…とてもオフィスには見えないな」

「オフィス兼自宅だもの」


そう言っての差し出したマグの中で、濃い色をした液体が湯気を出していた。


(ああそうだ――この味、)


口をつけてから、思い出す。

が好きなのはコーヒーじゃない。マテ茶だ。

香ばしく苦みの残るマテ茶の味は、コブにとの久方ぶりの再会を痛感させた。

最後に会ったのはモルの葬儀の時だった。

あの日、の白い肌にまるで吸い付くように纏わりついていた喪服が

妙に似合っていたのを覚えている。

今日の彼女は、相反するように白いワンピースだった。

柔らかな日差しが反射する程に、眩しく輝いて

コブはそっと目を細めた。

の喉が上下して、マテ茶を飲み下す。

そして愛らしい声で躊躇いも無く訊いた。


「まだ潜ってるの?」

「――ああ。俺みたいな奴は金がいる」

「設計は?」

「いや、もう限界だ。

 …――モルが邪魔する」

「でしょうね。

 私なら貴方の夢には絶対に潜らないもの。

 リスクしかないから。

 ――そのリスクを侵してまで

 貴方の夢に潜ってくれるアーサーにもっと感謝することね」

「アーサーもパリに来てる」

「…――私の協力が必要なのね」

「そうだ。手伝って欲しい」

「いいわよ」


はアッサリと答えてみせる。


「――これは普通の任務じゃない。

 詳細を、」

「いいの」


は微笑む。

コブはいつも思う。

このどこか哀し気な微笑みは、一体どこから来るのだろう。

知り合った時にはもう既にそうだった。

つかみ所の無い、風のような、切なく、妖しい存在。

彼女の人生に何があったのか。

それは誰も知らない事だった。


「内容は問題じゃないわ。

 ――モルにお別れをした日から決めてるの。

 ドムが助けを必要とするなら、どんな事だろうとイエスと答えるって」











はそのままコブに連れて行ってくれと頼んだ。

通りから取り残されたようにひっそりと眠っている倉庫のような建物――。

ほこりを被った機材に囲まれて、アーサーとアリアドネが待っていた。


「遅れて悪かった」


アリアドネは肩を竦めた。


「私も今来たところ」

「紹介するよ――。アリアドネだ。今回は彼女が設計する。

 ――教授のお墨付きだ」

「じゃあ設計は完璧ね」

「いやまだだ。でもこれから訓練する」


アーサーはどこか安堵したようにに手を差し出した。


が居てくれれば心強い」

固く握手をかわす。


「相変わらず褒めるのが上手ね」


アリアドネが不思議そうに訊く。


「貴女は?」

「《訓練士》よ」

「訓練士?設計はしないの?」

「しないって決めた訳じゃ無いけど――でも、そうね。

 私が必要とされる仕事は、もっと他にあるから」


アリアドネのために、コブが後を引き継ぐ。


「《訓練士》っていうのは、自分の夢の中に外部からの侵入があった場合を想定して、

 防御の訓練を教える。これは立派な職業だ」

「いいえ――別に立派じゃないわ。

 ドムとの違いは《合法》って事くらいよ」

「そうなの?」

「あまり一般的な職業ではないけれどね。

 普段の仕事は論文の執筆や心理カウンセラーが関の山よ。

 それでも特殊な立場の人間は《夢》を守るために必死なの」

「《夢》って――そんなに簡単に侵入できる物なの?」


は妖しく微笑んだ。


「それはきっとこの後ドムが教えてくれるわ。実戦的にね」

「訓練士は何をするの?」

「――今回みたいな場合は。

 おおまかな素材や状況を提供するのよ。

 あるいは潜在意識の防御の効率の良いかわし方とかね。

 つまり、パターンやシチュエーション。

 夢の中で《こう》すると《ああ》なる。

 物事には定義がある。夢にもね。

 もちろん相手は人間だから。

 私はどこかのお偉い学者たちみたいに

 定義を《万能》とは思わないけど」


は「もちろんマイルス教授は別だけど」と楽しそうに付け加えた。

アーサーがとアリアドネにそれぞれ一冊にファイルを手渡して、

コブが今回の内容について詳細な説明を始める。

は――その声がどんどん遠くなっていくのを感じた。

耳の奥がぼわぼわとくぐもって、消えてゆくコブの声。

咄嗟に、何が起こったのか解らなかった。

脳がはち切れそうだ。

呼吸の仕方も忘れた。

開いたファイルの中には一枚の写真。




そこには――彼が、いた――。


ロバート・フィッシャーが――。




「…――“インセプション”だ」


一瞬にして意識が戻る。


“インセプション”――そこだけ妙にはっきり聞こえた。

アーサーがの異変に気付く。


、どうした?顔が真っ青だ」

「…――ない」

?」

「ドム、ごめんなさいわたし、出来ない」


小刻みに震えていた。

それはコブもアーサーも見た事の無い姿だった。

の売りはその冷静さと判断の正確さである。

そんな彼女が今、ファイルを開いた途端、動揺している。


「ああもちろん――無理強いはしない。

 でも――大丈夫か?」


コブが心配そうに顔を覗き込む。

はいつものように必死に笑ってみせようとした。

だが、その行為はまったく上手く行かなかった。


「――アリアドネ。ちょっと来てくれ。

 《夢》の仕組みについて基本的な事を説明する」


アーサーはそう言って、アリアドネを倉庫から連れ出した。

コブの瞳に映ったの姿はあまりにも不安定だった。

夢の防御は解っていても、人の心は理屈では縛れない。

コブはがいつも隠している哀しみの正体を、今なら探れると確信していた。

何よりも。

は仕事仲間である前に、コブにとっては数少ない友人だった。

コブは今、自分がなにをすべきか解っていた。

の肩にそっと手を添えてやる。


「聞くよ」











乱れた呼吸が安定したのを見計らって、コブは口を開いた。


「――フィッシャーの事を…知っているんだな?」


は静かに頷いた。

瞳が少し潤んだようだった。


「――どんな理由があろうとも。

 私はロバートには、関われないわ」

「何があった――ロバートは君の訓練を受けたのか?」

「いいえ。違う。そうじゃないわ」

「じゃあ、」

「――付合ってたの」

と――フィシャーが?」


あの御曹司と一般人の接点など――…ああ、そうか。

はそっと睫毛を伏せた。

それは今でも鮮明に脳裏に蘇る、過去。


「――彼と知り合ったのは大学時代よ」

「そんなに前からか」

「卒業した後も、ずっとね」


コブは眉間に皺を寄せた。


「よくあの父親が止めなかったな」


は力無く笑った。


「――もちろん彼の父親は反対していたわ。

 でもわざと見逃した。

 息子のための“遊び相手”と思って、目を瞑っていたの。

 ロバートには大企業の跡取り息子って責務もある。

 それに父親の命令には逆らえない。

 どうせ若気の至り、長続きしない、すぐに飽きるだろうって。

 ――普通はね」

「でも別れなかった」

「ええ――…結局8年間、ロバートは父親を説得しようと機を狙ってた」


も努力はした。

決して裕福な子供時代を送ったとは言いがたかったからだ。

実の両親は早くに亡くなり、子供の出来ない夫婦のところへ養子として引き取られた。

しかしはそれを恥じる人間ではなかった。

人望と才能にあふれ、大学でも主席、将来は有望だった。

それでもモーリス・フィッシャーは頑なにの存在を無視しようとした。

まだ学生時代は良かった。

うっかりモーリスに会おう物なら、嫌味のひとつも言われていたから。

だが卒業し、が大学で教授職に就くと、モーリスは会う事すら拒否を示した。

こうなるとさすがのロバートでも、小さな反発心が芽生える。

ある時ロバートに説得され、はモーリスの誕生パーティーに出席しようとした。

黒塗りのリムジンから降り立つと、

ロバートは彼女こそが自分のパートナーだと言わんばかりに、

しっかりと腕を組んで、会場に入ろうとした。

しかし――入り口で警備に言われた言葉はひとつ。


「フィッシャーさん、その女性と一緒にはお連れできません。

 “ミス・が帰るまで息子を入れるな”と言うのが会長のご指示です」


ロバートの顔に一瞬にして朱が差した。

多くの業界人が集うこの場所で、跡取りに相応しくない行動を起こす前に、

は優しく告げた。


「ムキにならないで。お父様のお誕生日よ。貴方がお祝いしなくてどうするの?

 何も問題は無いのよロバート。

 さあ――行って。私は大丈夫」


この瞬間、はついに同じ空気を吸うことすら許されなくなったのだった。


「それから間もなくして、モーリスはロバートに黙って

 直接私を訪ねて来て言ったの。

 結婚は“有益”でなくてはならない。良い話が来ている。

 ロバートの事を愛しているなら身を引け。

 本当にロバートを愛しているのなら出来るはずだ。

 大人になって、聞き分けろ。そしてもう一生関わるな――。

 それがロバートのためになるんだって」

「従ったのか?」

「モーリスは言ったの。“今までロバートと遊んでくれた分の金をやる”って。

 その瞬間、私、頭が真っ白になって。気付いたらモーリスを追い出してた。

 私は泣きながら必死に荷物をまとめた。

 ロバートとかわしたディナーの約束も、語り合った夢も、

 愛の言葉も全て捨てて、持てる物だけ持って――。

 私はロバートに ”別れ“ さえ告げずに彼の前から姿を消した」


そこでようやく、は深く息を吐いた。

途方も無い懺悔をした気分だった。

そして懐かしいパリにの喧騒に逃れた。

ロバートはすぐに諦めないかもしれない。

ここは人も多い。街が姿を隠してくれるから――。


「――今もロバートの事を…愛しているんだな」


ずっと疑問に思っていた。

どこの国の男にとっても、彼女はとても洗練されていて魅力的だ。

それなのに、まったくと言って良い程男の気配が感じられなかった。

そういえば――モルは言っていたっけ。


(――あれは叶わぬ恋をしてる目なの)


「深く深く――彼を愛してるわ。

 彼と幸せになる事をずっと願ってた。

 ――別れて10年経つわ。

 ドム――貴方なら解るはずだわ。“別れ”の辛さが」


愛していると言うのなら――。

呪いのように絡み付く、最愛の人へのこの思い。

焦がれて、焼かれて、身を割かれて。

罪と愛の狭間で答えもないまま喘いでいる。

死別しても尚、自分の半身を埋めるのはモルだけだと――。


「ああ…――辛いな」


は弾かれたように、コブの胸に泣き崩れた。

誰しも人に言えない過去がある。

告げてはならない思いがある。

“インセプション”を手伝うことも、止める事も。

は彼の人生に関わる事自体が出来ないのだから。



















あれから5日が経った。

結局は、彼らの仕事には関わらなかった。

ロバートの情報の提供も求められなかった。

自力でなんとかするから、と。

任務についてが知っている情報は何も無い。

方法も――面子も。

任務について知っているのはただひとつ。

――“インセプション”という単語だけ。

コブたちはあの倉庫で、モーリス・フィッシャーが亡くなるのを待っている。

深い悲しみに暮れるロバートの事を想うと、胸が裂かれるようだった。


(彼を慰めてくれる人が、どうか側にいますように――)


仕事もほとんど手に付かなかった。

幸い《夢》に関わる仕事の予定は当面無い。

コブたちの任務が無事に終わりさえすれば、

きっとまた平穏な日常に戻れるとは自分に言い聞かせていた。

その晩、がラザニアを温めていると、電話が鳴った。

コブからだった。


「――ドム?どうし」

『リサーチでわかった。

 フィッシャーには浮いた話が無い。

 君が姿を消してからずっと――10年間』


喉の奥が燃えるように熱い。

血が沸騰する。


(ドムは――何を言っているの?)


『モーリス・フィッシャーが亡くなったら

 ロバートはロスに向かう。

 それに同行するために、俺たちはシドニーへ行く。

 父親は、朝から容態が安定しないらしい。

 時間の問題だ。

 ――。友人として言う。

 君は今すぐシドニーへ行くべきだ。

 任務とは関係無く、個人的に。

 ロバートに会うんだ。

 とロバートには肉体も心もある。

 投影なんかじゃない。

 実際に会えるんだ。

 ――俺みたいに後悔し続けたら駄目だ。

 会えばいい。会えば全て解るはずだ』

「…――私がもし、彼に“インセプション”の事を話したら?」


コブは受話器越しに笑っていた。


『君はそんな事絶対にしない』

「…――そんな風に言われたら裏切れないわね」










クローゼットから適当に洋服を取ってボストンバッグに投げ込む。

ハンドバッグには現金とカードと携帯があればそれで良い。

必要な物はあっちで揃えられる。

今はとにかく一刻でも早くシドニー行きの飛行機に飛び乗ってしまいたかった。

そしたらきっと考えられる。

彼は気付いてくれる?

会って何を話せば良い?

一番辛い時に現れて、更に彼を傷つけるのでは?

考え出したら切りが無い。

答えも無い。

はち切れそうなフライト時間はあっという間に時間の壁を越え、

は10年ぶりにシドニーの地へ降り立った。






長時間のフライトは緊張も手伝って、

思いのほか身体に堪えていた。

オフィス街に近い場所に居たかったから、

迷わずホテル・アモラへ直行した。

まだ昼前だった事もあり、幸いにも空室もあって、

寝泊まり出来る部屋は確保できた。

今はとにかく熱いシャワーを浴びて、

張り詰めた脳をリセットしなくてはならなかった。

鏡に向かって、笑顔を作ってみる。

――哀しそう。

小さく溜息を吐く。

コブからのEメールには


[ロバートはフィッシャー邸

 彼の携帯番号を明記しておく]


と短く書いてあった。

電話をかける勇気などすんなり沸くはずもなく。

すばらくの間、番号のメモを睨みつけていた。

諦めたか腹を括ったか――とにかくそれでも手が震えて、

うまくボタンが押せなかった。

4回目でようやくプッシュが終わった。

コールが鳴る。


(そもそも――。

 知らない番号からの電話になんて、出ないかもしれない)




1…、2…、3、




『…もしもし』


彼の、声だ。

変わらない。

は瞼を引き結んだ。

目頭が熱くなる。

駄目だ。

泣く事だけは絶対に。


『――もしもし?』

「…――突然のお電話、ごめんなさい」


刹那の沈黙が、時間を止める。

不安が身体中を駆け抜け、手や唇を震えさせる。


『…――っ、ああでは少し待ってくれ。

 すぐに折り返す』


ブッという電子音の後に、彼の声は耳もとから消えた。

1分としないで、握りしめた携帯電話が鳴ったので、

は思わず電話を落としそうになってしまった。

震える手で通話ボタンを押す。


「――もしもし」

『君か?本当に――なのか?』

「ええ――よ。

 それより――大変な時にごめんなさい。

 またかけ直すわ」

『いや、いや駄目だ、切らなくて良い。

 ――さっきは隣に父が居たから。

 部屋を移動したよ』

「デリケートな時に、私の名前なんて絶対聞かせちゃ駄目よ」

『――知ってたのか。父の事』

「――もちろん」


少しだけ、会話の糸口が開けて、相手に聞こえないよう安堵の溜息を吐く。


「――今…シドニーにいるの」

『――ホテルは?』

「アモラよ」

『…――7時に行く。

 ラウンジで待っていてくれ』




この耳は彼の声をちゃんと覚えていた。

その証拠に身体は彼を渇望していた。

軋む自分の肩を抱きしめた。




考えてみれば、自分がろくに服も持って来なかった事を思い出した。

ドレスコードもある事だ。

それなりの物を買いに行かねばならない。

トレンチを羽織って、足早に部屋を出る。


(――怖い)


それでも。

出来る事なら少しでも印象良く、ありたい。

そうでなくても最後に会った日から10歳も老けているのだ。

キャッスルリーで今晩の変身に必要な物を一式買い込んで、

ホテルに戻ったときには待ち合わせまで3時間を切っていた。

汗をかいたのでもう一度シャワーを浴びて、丁寧にクリームを塗った。

新しい下着を着け、化粧にはたっぷり時間をかける。

こんな時だ――ラインの美しい黒いドレスにした。

過剰な装飾はいらない。

シンプルで女性らしければ良い。

ルブタンのヒールに足を滑らせ、鏡の前で一回転する頃には

時計の針は待ち合わせの10分前だった。

ゴールドのクラッチにカードキーを入れて、部屋を後にする。

情けないと解っていても、膝の震えが止まらない。


(しっかり――するのよ)


心臓が身体を蹴破って今にも出て来そうだ。

意識して脚を動かす。

ラウンジを覗き込む――バーカウンターに、ロバートは居た。

深く息を吸い込む。

あとはもう、なるようにしかならない。

がラウンジの中に入ると、涼やかな美しさに何人かがチラリと彼女に目線を走らせた。

ロバートがグラスから顔を上げるとそこには――、

待ちに待った、女性が立っていた。


「……――…」

「ロバート…」


互いに互いを吸い込むように。

見つめ合った。

否、目を奪われていた。

眠らせていた思いは、切ない程鮮明に蘇り、この胸を打ち据える。


「…――綺麗だ――とっても」

「もうおばさんよ」

「いや――本当に綺麗だ。

 ――全然変わってない」


ロバートはに席を勧めずに、自分も席を立った。


「上のレストランに予約を入れておいたんだ――行こう」

「お父様は…良いの?」


彼は哀し気に口端を上げて見せた。


「薬のせいで眠ってるよ。

 家に居ても何も出来ない。

 ――なにかあったら呼ばれるだけだ」











シドニーの夜景を眺めながら、二人で居たときの感覚を思い出していた。

ワインの好みも変わらない。

コース料理は決まってメインを決めてから、前菜を選ぶ。

料理を食べ終わる頃には、少量のアルコールが心強い助けとなっていた。


「――指輪は?」

「結婚したことないの」


ロバートは咳払いをして言った。


「いや――その。

 ――君は魅力的な女性だから。

 男は放っとかないはずだと思って」

「貴方だって。

 ――結局まだ結婚してないんでしょう?」

「…――なぜ、シドニーへ?」


ロバートはその一言で、話の軌道をそっと動かし出した。


「お父様の容態があまり思わしくないって聞いて――、心配で」

「心配――?

 君に対して散々酷い仕打ちをした――あの父の事が?」

「私が心配だったのはロバート――貴方よ。

 貴方の心中を思うと――もう、居ても立っても居られなかった」


涙が溢れそうになり、声が湿る。

慌てて感情の波を押さえようと、は目を伏せた。

ロバートは苦し気に顔を歪めて喘ぐように吐き出した。


「…なぜ私の前から――消えたんだ」


もロバートも、心が悲鳴を上げていた。


「――貴方を深く――愛していたから、」

「何も告げずに去る事が愛なのか?」

「そうじゃない――そうじゃないの。

 私を“悪者”にすれば、全て丸く収まるはずだったの」

「“悪者”――?一体なんの事だか」

「ロバートには守らなくちゃならない立場がある。

 もっと相応しい結婚相手が――いるはずだって、それで、」


ぽろぽろとこぼれ落ちた涙を見て、ロバートは眉間に皺を寄せた。

胸ポケットのハンケチーフを差し出して言った。


「――出よう。――君の部屋でも良いかい?」


が頷くと、ロバートは彼女を守るように肩を抱き寄せて

レストランから連れ出した。

エレベーターに乗り込むと、ロバートは確信的な口調で言った。


「……――父…なんだな」

「――っ、お父様は、ロバートのために言ったのよ」

「おかしいと思ったよ――君が去った後、父は次から次へと縁談を持って来た」

「、貴方のためよ」

「会社のためさ」






フロアに降り立つと、またそこで会話は途切れた。

静かな廊下を突き抜けて、つい数時間前までロバートのために

せっせと粧し込んでいた部屋の前で足を止める。

クラッチからカードキーを出し差し込むと、

ロバートはが先に入れるように扉を開けた。

一歩部屋に入れば、そこには完全にプライベートな空間が存在した。

扉が閉まると同時に

の唇はロバートに塞がれた。

当たり前のように腕を回す。

貪るように互いを求め合って、

相手が本当にそこに存在しているかを確かめる。

記憶の奥底へ押しやったいくつもの思いが、容赦無くなだれ込む。

甘く、苦しく、愛おしい――。

酸素を求めて離れても、すぐにまた塞がれる。

まだだ――まだ足りない。

会えなかった時間を埋めるには、いくらあっても足りない――。

の頬に一筋の涙が伝って、ようやくロバートは名残惜し気に唇を解放した。

はロバートの胸に頭を埋めて肩を震わせた。

泣いていた。

その悲しみが手に取るように伝わって、ロバートは彼女を強く抱きしめた。

閉じ込めるように。

もう――逃がしてなるものか。


「わたし、誰かを愛そうって、必死に、努力したの。

 でも――駄目だった。

 ロバートじゃないと――…駄目、だった」


応えるように一層きつく抱きしめた。


「わかってる、わかってるよ――私だって同じだ。

 ――君以外愛せなかった」


首筋に、鎖骨に、唇が這う。

肌を滑り落ちる漆黒のドレス。

シーツの海に沈む身体。

与えられる物を全て差し出し、捧げられる物を全て投げ出す。

滑らかな肌に吸い付く肌。

惜しみない愛撫に容赦無く翻弄され、

意識の預り知らない声が溢れては部屋を満たして行く。

青い瞳に捕われている恍惚を痛い程に感じる。

味わっても、味わっても、枯渇する事を知らない。

果てるまで身体を絡め合って、最後に彼が沈むのは、彼女の白い胸だった。


は縋りつくロバートの頭をそっと抱きしめた。




「約束して――お父様を嫌っては駄目よ…ロバート。

 ――有益な結婚が必要なら、すればいい。

 私はもう――充分幸せだわ。…報われたんだもの。

 でもどうか――忘れないでね。

 お父様に置いて行かれても、ロバート、」







「…――貴方は独りじゃないからね」







碧眼から溢れ出す淋し気な泉が、の胸を濡らした。

の細い腰を抱きしめて、声を押し殺して、ロバートは泣いていた。

不安に涙する場所も、方法も、彼は周囲に教わらなかったから。

は彼の柔らかな髪に頬を乗せて、何度も、何度も、

掌で頭の丸みを撫でて続けた。











目を開けると、外は白んでいた。

時計が5時を示していた。

隣にいるはずのロバートが居ない代わりに、

シャワーの水音が耳をくすぐる。

シーツにくるまって、ずっとその音を聞いていたいと思った。

彼はバスローブを羽織って、冷たく冷えたペリエに口を付けた。

が起きている事に気付くと、優しく微笑んで、ペリエを差し出した。


「――懐かしいな。

 学生時代、君のアパルトでセックスして。

 シーツに染み込んだデュランスの香りを今でもよく覚えてるよ。

 はいつもマテ茶を飲んでるのに…終わった後はペリエを飲んでた」


は嬉しそうに微笑んだ。


「私の好きな物は、ずっと変わらないのよ」

「今でもペディキュアは赤い」


そう言ってロバートはの爪先にそっと口吻けた。


「……周りの事が落ち着いて――、

 それでもデュランスの香りが恋しくなったら…いつでもパリへ来て」




はロバートに将来の約束を絶対にさせなかった。

今は父親の事だけ考えて欲しかった。

それに――これはロバートにとって最も冷静に考えなくてはいけない問題だ。

会社を成長させるのならば。

結婚すら立派な切り札となるのだから。

ロバートは何度も何度もとキスを交わして、

後ろ髪を引かれるようにして、部屋を出て行った。

はしばらく、動けなかった。

慣れない行為で身体を酷使したのもあるが、

まだ彼の香りが残るシーツに肌で触れていたかった。

少し涙が出た。











そんな風に怠惰に時間をやりすごし、

シャワーを浴びようと身体を起こすと

洗面所には昨晩ロバートの貸してくれたハンケチーフが置いてあった。

どうやら忘れたのでは無いらしかった。

何かを――包んでいる様だった。

ハンケチーフの端を指先でそっと摘むと、

そこに包まれていたのは――ペンダントだった。

涙型をした大粒の真珠がひとつ、潤んで輝いていた。

ハンケチーフにはメッセージが書かれていた。











「父が母に送った物で

 病床の母がこっそり私にくれた。

 君に持っていて欲しい。

 愛を込めて」





















その日の夜、モーリス・フィッシャーが亡くなった事をニュースで知った。

葬儀は木曜日――ロスだと言う。

はコブに一本電話をかけてから

荷物をまとめて、シドニーを後にした。



































パリに帰国して2日目の朝。

マテ茶を飲んでいると、携帯電話が鳴った。

着信はコブからだった。


「アロ、ドム。

 この電話はどこから?」

『アメリカからだ』

「――上手く行ったのね」

『ああ。成功した。

 ――、近いうちロバートは君を迎えに行くだろう。

 今から結婚式の会場でも押さえておけよ』

「…ドム、脳みそぐちゃぐちゃになっちゃったの?

 変な事言うのね…、一体どんな任務だったの?」

『知らなくていいさ――時間が経てば勝手に芽が出る。

 そうだ――おもしろい事がひとつあったぞ。

 ロバートの潜在意識の投影の中に、君が居た。

 …真珠の首飾りをしてたよ』

「――ちゃんと殺したんでしょうね」

『もちろん――しのびなかったが、

 ロバートに気付かれる前にご退場頂いたよ』

「…――ドム」

『ん?』

「…――ありがとう」

『――これで借りは返したからな』

「借り…?」

『君は最後まで――モルの友人でいてくれた。

 夢と現実の堺が解らなくなり、混乱していたあんな状態のモルとね』

「――モルに感謝しなくちゃね」

『ああ…――そうだな』











アメリカに行く用事を作って、モルに会いに行こうと思った。

彼女のお墓にミモザと白いバラの花束を持って行ったら、

きっと喜んでくれる。

夢の亡霊と過去の亡霊に取り付かれた女がふたり、

集まればいつも愛について語り合ってた。

モルに報告しなくては――。

行方不明だったはずのこの恋の――顛末を。











fin.


















★::::★::::★::::★::::★

さんについて書くと。

さんはフランス人です。

ご両親を亡くされ、引き取られたご夫婦が裕福なアメリカ人。

アメリカで教育を受けてます。

(あくまで私の捏造設定では)

ロバートとはアメリカの大学で知り合いました。

留学してたんですね。

はその大学で、定期的にフランスから来るマイルス教授の 特別講義を聞いていると尚良いです。

勉強熱心で非常に非常に優秀な生徒なので、

マイルス教授に可愛がられます。

フランスにいるコブもモルもなんとなくそれを教授から聞いてる。

「アメリカにおもしろい生徒がいる」とか。

大学卒業と同時に、養父が亡くなり、

養母もあとを追うようにこの世を去ってます。

葬儀にはロバートも参列してくれました。

さてはロバートに何も言わずに国を飛び出し、

自分の生まれた国へ帰ってみる事にしました。

これがだいたい25とか26歳くらいの時。

もちろん親類などはいませんが、マイルス教授の助けで

すぐに教職につく事が叶いました。

ここでようやくモルやコブに紹介されます。



無い頭をひねって、結局こんなもんです。

ロバートちゃんのパスポートの年数から計算して

おそらく35〜37歳なので、こんな杜撰な計算で収まりました。

ちなみにさんは、ロバートが夢を守るための訓練を受けていた事を知りません。 受けたのは別れた後なので。

知ってたらさすがにコブに あとデュランスはフランスの柔軟剤です。

あーロバートぼっちゃんが愛おしいです。ひん。

お粗末さまでした。感想頂けると泣いて喜びます。

20110418 呱々音