時代のうねりがきしきしと音を立てて蝕んで行く。

それはただ闇雲に搾取されているのか。

はたまた選ばれたが故の事なのか。

うねりは愛する者たちを容赦無く彼岸へと追いやってしまう。

気高き男たちは皆、戦の中でこそ死に果てたいと願う。

それでこそ武士。

それでこそ侍。

嗚呼、それなのに――。

天はなんと残酷な事をなさるのか。

死病とうたわれる蝕みの苦行を、

その腕こそ新選組一と名知れた彼に――沖田総司にお与えになるなど。

なんて――なんて、酷いことを。






















松本良順の元へ預けられているのは、この姪に中るである。

予てより、には女ながらに医の素質があると評価していた松本は、

姪から医学の心得に興味を持っている事を改めて相談されて口を噤んでしまう。

年頃の娘にそんなものを教えたがるなど、よほどの狂気か酔狂か。

松本とて本音の部分では残念に思ってはいた。

なればと思い立ったは、臨時の手伝いが見つかるまでと自ら両親を口説き落として、

ある日突然松本の元へ転がり込んで来た。

一族は医者の家系である。

利発で聡明なの天性のどうも上手すぎる説得などを咎める術を

あの親らはもっていなかったのだろう――松本は密かにくっくと笑った。











松本が人手不足を嘆くことは、ままある事であった。

だがある日、新選組での健康診察から戻るなり、伯父はへ歩み寄り、

迫る形相で肩をつかんだ。

急な動作に、薬庫の残りを付けていたの手から筆がからんと落ちる。

それでも松本は汚れた床を気に留める素振りも見せない。

険しい眼差しでキッと睨んでいたが、深く深呼吸をすると、

今度は困ったように――打ち明けた。


――お前は新選組の沖田総司という男を知っているか」


は乱れる様子もなく、ゆっくりと頭を縦に振った。


「はい…もちろん存じ上げております。

 町で何度かお見かけした事もございます」


あれはきっと巡察中だったのでしょうねえ――と付け加えて、

は薄らと懐かしそうな目をした。

松本は言いにくそうに顎を摩ると、声音小さく告げた。


「…その沖田総司なんだが――彼は、……労咳だ」


の瞳にとても小さな動揺が浮かんだが、松本は構わず続けた。


「充分に休養が必要だと言っているんだが…。

 彼の事だ――目を離せばどんな無茶をするやら。

 私もまめに立ち寄るつもりではいるが、いかんせんこのような時勢だ。

 弟子達も方々へ駆り出されてしまって余計な人手が無い。

 …――実に難儀な頼みだと重々承知している。

 が…どうかお前が、彼の元へ通ってやってくれないか」


は少し考える素振りを見せたが、師と尊敬してやまぬ伯父の頼みとあれば

答えは簡単だった。


「――わかりました。ぜひお手伝いさせて下さい」






















屯所に訪ねて来たのが嫁入り前の麗らかな娘だと知れると、

土方は物憂げに溜息を吐いた。


「全く――あの先生は本当に思い切った事をしやがる」


こんな男臭い所帯に、可愛い自分の姪を毎日通わせるなど正気の沙汰ではない。

土方は呆れる反面、やはりあのお医者は見上げたものだと感心する。

それと言うのも彼女の看護が実に手際よく、慣れたものだったからだ。

そのくせ出過ぎた真似はしない…という意図をこちらに汲ませる抜け目の無さ。

新選組という特殊な環境で、その心構えこそが一番必要な事であると、

は重々承知しているのであろう。

そして何よりこの小娘は、当の沖田総司という人間の特殊な気質を、

3日も立たぬうちにすっかり把握してしまった。

総司は――自分の”弱み“になる部分を晒すのを酷く嫌う男である。

口やかましく言っても聞かないかと思えば、そのくせ妙に素直な所もある。

剣に関しては殊頑固で、その部分はそれこそ斎藤と良い勝負であるが、

興味の無い物に対しては酷く淡白だし、その反対もまた然り。

一度愛で出すと際限を知らぬ所もある。

良くも悪くも子供っぽい“癖”の持ち主だから「殺す」「切る」の文句ですら

総司にしてみれば一種の戯れのような物だ。

最初、隊士たちは見るからに神経の細そうななど、

それこそ3日と持たぬだろうと賭け事にして行く末を見守っていた。

だがあの総司が。

気紛れが服を着て歩いているような、あの、総司が。

という人間を「君、面白いね」の一言で気に入ってしまったのだから――。

隊士たちは驚き、そして財布がほんの少し寒くなったという訳である。

…面白い方に掛けて得をしたのは原田と斎藤であったとか。

土方などははなから賭けてもいない。

そんな博打が繰り広げられているとは露知らず、は真心を持って総司を労った。

幾分元気そうなら他愛無い言葉を掛け、気がつけば話し相手になっている。

人を計るような目をしがちな総司が、いつの間にかくるくると表情を変えたり、

束の間の笑みを浮かべたり――そんな様子を遠巻きに見て密か、

土方はそれこそもう幾度も不安を否定し、安堵の溜息を漏らすのであった。

(いきなり前線外されたんだ――総司だって寂しいだろうよ)

は松本に管理された総司の夕餉の支度をしたりもした。

とにかく本当に良く働き、構いすぎずにきちっと世話をする。

だがなぜだか不思議と押し付けがましくない。

が起こす仕業を、周囲は自然と受け入れてしまう。

毎日朝餉の仕度と同時に屯所を訪ねては、日が沈むと共に帰って行く。






















総司は――図らずもそんなに心惹かれていた。

夜毎胸を苛む良い知れぬ妙に甘苦しい圧迫――。

言うなれば――不慮の事故、何とはなしに、気がつけば――必然的に――。

総司は当然、腑に落ちぬ。そしてほんの少し、苛立つ。

日中は出陣叶わぬ戦や剣術の事で頭も心も破裂せんばかりに乱れている。

だがこうしてふと訪れる思考の虚空に思い浮かぶのは――

うっとりと微笑みかけるの笑顔ばかりだった。

どうにもそれが釈然としなくて、布団を頭まで掛けてみる。


(あーあ。腹立たしいったら無いよ。

 ――明日は朝一番に意地悪を言って困らせてやらなくっちゃ)


そう思っていても、清々しい朝を纏って朝の挨拶を告げるを見ると、

昨晩の誓いは、ほんの一瞬、怯んでしまう。

だが総司はそんな躊躇いにはすぐ見切りを付けて、

思わせぶりな作意を含んだ笑みを口端に添えて、こう告げる。


「今日はなんだか具合が悪くて咀嚼がめんどくさいや。

 ちゃん。口移しで食べさせてよ」

「沖田さんはいつもそうやって私に意地悪をおっしゃる」


そう言っては事も無げに柔らかく微笑んでしまう。

膳に手を出さず、肩肘をついて寝転ぶ総司のすぐ隣では、が洗濯物を畳んでいた。

初夏の風がよく通るようにと、開け放った縁側から心地良い風が通り抜ける。


「…そうかもね。

 ねえ――今日こそ僕の事、嫌いになった?」


威嚇するように笑んだその瞳が、にはあまりにも愛らしく見える。


「残念ですがは今日も沖田さんの事をちゃんと好いております」


真っ白に洗い上げられた洗濯物を畳みながら、はまるで母親のような顔で笑う。

――嬉しい。

でも――そうじゃない――。

総司の胸に蔓延るのは、病と同じくらい厄介なもどかしさ。

その表情が欲しいのではない。

出陣できずともこうして男でいられるうちはせめて、

愛でられ守られる対象にはなりたくない――君だけには。

総司は衰えても健在な腹筋でゆっくり身体を起こすと――しばしあってから、

凛とした声で名を呼んだ。


「――ちゃん」


平静の奥で熱く揺れる真摯な瞳が、沖田総司と言う男の人柄を強く訴える。






「僕のお嫁さんになってよ」






遠くの方を眺めながら寂しく笑った。


「僕はこんなんだから。いずれ死ぬ。

 …――でもそれは……戦場じゃない」


認めたくはないけれど。

これが嘘であればどれほど幸福だったかと。

何度願って絶望した事か――。


「どんなに願ったって、僕の死に場所は近藤さんの隣じゃない。

 僕は――それが嫌で嫌で…たまらない。

 近藤さんはね、僕が認めた唯一の“武士”なんだ。

 っ…あの人の隣で、あの人のために死ぬ事が…僕の夢だったのに――」


は何も言わず、静かに目を伏す。

無造作に脱ぎ捨てられていた羽織をたぐると、冷えぬように総司に掛けてやった。

両の肩にそっと手を添える。

病に打ち据えられていてもその肩はやはり、男。


「…――兼ねてからの望みが叶わぬから…。

 私の隣で死にたいと…仰るのですか」


総司は弾かれたようにの顔を見た。

ああ――しまった。


「…そんな顔させたかったわけじゃないんだけどな」

「…諒解っております」

ちゃん――、僕は、」


は優しく顔を反らすと、微かな悲しみを含んだ声でそっと呟いた。


「――ねえ沖田さん。

 貴方は残される人間のことなど、考えなくて良いのです」


そっとそっと、諭すように。


「…――でも、」


面を上げ、総司を再度見据えたの眼はきりりと、だがしかし――涙が溢れて――。


「沖田さんが死んで悲しむ人間がいることを、忘れないで下さいね」


まるで竹刀で脳天を強く打ち据えられたような衝撃が、総司の身体を一撃走った。

痛い、痛い、痛い。

胸が心が、しくしくと。

こんな瑣末な感情にすら――今はもう、耐えられない。


「っ…、うん」


病を告げられし日よりずっと押さえ込んでいた物が――溢れる。

それは涙となって総司の頬をぼろぼろと落ちる。

総司はなんとか笑おうと、必死になって顔を歪めた。






「ごめんね」






いつも困らせてばかりだ、ごめんね。

そんな言葉を言わせて、ごめんね。

意地悪ばかり言って、ごめんね。

僕は君よりも早く死ぬ――ごめんね。






堰を切ったように溢れ出す総司の辛さは、夏の空に吸い込まれる。

吐き散らす嗚咽を、雲が笑う。

目の前に居る少女はいつだって自分の側にいてくれたというのに、

今更実態を確かめるように、柔らかな身体をきつくきつく抱きしめた。

喘ぐように告げる。


「僕は――弱く、ない」

「…はい」


けほ、と小さく息が荒れる。


「…っだから――許せない。

 僕の心を簡単に乱す君が、許せないよ。

 でもね……これだけは信じて?

 ――僕は、君を、お嫁さんにする。

 …これは…気が遠くなるくらい、もっとずっと未来の約束」


は総司の顔を見たかった。

だがきつく拘束されて、身を退けない。

だから泣きそうな声で必死に言葉を絞り出した。


「――またそんな意地悪をおっしゃって…仕様の無い人」


(そんな――)


「…――寂しい事、仰らないで」


も彼と同じように、子供のようにわんわんと声を上げて泣きたかった。

だが――出来なかった。


(ここで泣いては…駄目。

 支えなくては――彼を…支えなくては)


総司の背に指を這わせ、力を混める。


「っ――私の人生は全部、沖田さんにあげます。

 だから……だから、」


その言葉を言わせてはならぬとばかりに、総司はの唇を塞いでしまった。

その優しい言葉を――受け取る術を総司は持たない。

権利もない。

そう遠くない未来、死に逝くと諒解っている人間と婚姻を結ぶなど。

どう考えたってまともでは無い。

総司とてそんな事は百も承知で吐いた嘘である。

若い娘の――ましてや心から好いた女性の将来を、

闇雲に翻弄する権利など在ろうはずもない。

それどころか願わくば――幸せになって欲しい。

どうか病に討たれる自分の遂げられなかった本懐を、

そして見る事の叶わぬ未来を、世界を、色を、見届けて欲しい。

由緒ある家柄の娘らしく健康で、優しく…人など斬らぬ善き夫と一緒になって、

子供に囲まれて――。

よく笑い、よく泣き、多くの者から愛されて、長く生きて――。

そして――。

――とてそれが総司の優しい虚言だと知っている。

それなのに――嗚呼それなのに――。


(君って人は…そうと知れていても――僕に人生をくれようとするんだね)


まるで押さえの利かぬ情夫がごとく、煽るように激しく求められて、

はなんの抵抗も出来ぬまま、未知の感触と刺激にただただ耐えるばかりであった。

どれほど貪ったか。

名残惜し気に唇を離す総司の表情は――見た事も無いくらい艶美で、

そして――只管に、痛ましかった。

泣き出しそうな、惜しむような、困ったような、その新緑の瞳が

まるで縋り付くように揺れて、精一杯に笑う。


「…ありがとう。

 僕はね、君が…の事が――大好きだよ。

 だからっ――だからこそ僕は――っ、」


総司はそこで言葉を呑み込んで、いつものように悪戯っぽく笑う。


「……そうかあ。君が僕の奥さんになるのかあ」


いつの間にか柔らかい幸福で満ち足りほんのり上気した顔で、総司は言った。


「君のおかげで生きるのが楽しみすぎて、まだ全然死ねる気がしないや」


は自分が叫び出しそうになるのを必死で堪えた。

そして一縷の涙で頬を湿らせると、なんとか口端を上げて、

総司の目を見据えて言葉にならぬ思いを返そうと努めた。







(神様、どうか、この人を…――連れて行かないで)























それでも――。


総司の身体は刻一刻と病魔に浸食されていった。


そして――。


人成らざる者は、朽ち逝く沖田総司を――決して楽には死なせてくれぬ。
























































「――僕は変若水を飲む」





































「っ…駄目です総司…!」


「…口出しなんて全然意味ないんだけど。

 僕の奥さんになるって言ったのは君でしょ。

 だったらさ。大人しく――諦めてよ」


「それとこれとは話が違います!ねえ総司、お願いですから」


「…うるさいなあ」
















(だって)



総司は微笑む。



(仕方ないじゃないか)








刹那、赤く揺らめく液体を喉の奥に流し込み――。

己が肉体の、変わりゆく血と喉の沸騰。

目眩、吐気、高揚、苦しみ。

…――苛まれても。変わっても。








(僕は)



思うことは、ただひとつ――。














(ずっと――君と生きていきたいんだもの)







































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総司にどうしても言わせたい台詞があったのです。

「お嫁さん」なんて永劫に叶うはずのない、気の遠くなるような未来の話を持ち出して

自らと現世を繋ぐ切ない総司が書きたかったんです。

総司ももちろん、死に逝く自分がお嫁さんを貰うなんで気は更々なく。

優しくって悲しい、ちょっぴり意地悪な嘘なんです。

いずれ死ぬ――始めからそのつもりでした。

でも、なんらかの形で変若水を手にしてしまう。

心変わりしてしまう。

どうしようもないくらい、愛してしまっていたのでしょうね。

久々の短編…お気に召して頂けるやら。いささか不安です。

20111122 呱々音