忍の理を授けてくれた人は言った。

忘れてはならない――俺たちは陰だ。

陰に意志はいらない。

主の命を尊び、己の存在を道具とする。己は殺すのだ。







幼少の頃親に死なれた無力な餓鬼だった俺に、目を掛けたのが織田信長であった。

その生き様は唯一無二の存在そのもので、比類無き御方、紛う事なき天下人である。

ある日、信長様は俺と同様の酷くつたない存在を見つけてきた――

名を石川五右衛門と賜ったその餓鬼と共に、俺は服部半蔵の元へと預けられた。

織田信長、そして服部半蔵を師と仰ぎ、ありとあらゆる武術を仕込まれ、

生きるか死ぬかの世界に頭までどっぷりと浸かっていった。




































任務を仰せ遣う年頃になった折、

五右衛門は信長の姪であられる茶々様の護衛の命を受けた。

そして才蔵もまた、隠密の任務を授からんがため信長の御前に馳せ参じた。


「才蔵!」

「は」


信長は射抜くような鋭い目を向けた。



「儂の娘」


甘い香り、衣擦れの音――。


だ――よく存じておるな」


顔を上げる。


「護れ」



信長の直系の御息女である。

しかし――その存在は他の姫たちとは明らかな差異があった。

生まれつき身体が弱かったのだ。

この見目麗しい少女の事を、才蔵は、否、才蔵たちはとてもよく知っている。







幼少の頃、はよく半蔵に預けられていたのだ。

変わり者の病人に友など出来る訳もなく、遊んでくれる者もいない。

信長はそのまま病に甘んじて育てる気など毛頭無く、

最初は面白半分で半蔵の左手にの小さな手を握らせたのだった。

才蔵と五右衛門より幾ばくか幼い女児は、右手を伸ばし必死に半蔵の無骨な手を握りしめながら、

つぶらな瞳で少年たちの血の滲むような修行を見つめていた。

そして――なぜか異様に才蔵に懐いた。

親しみを持って接して頂いたからと言って仮にも姫様だと半蔵にきつく言いつけられている。

忍は陰だ。は主であって友達ではない。

十二を迎えた頃、は千利休の計らいで然るべき教育を受けるため、殿を移る事となった。

見送りの時、信長の護衛のために半蔵、五右衛門と共に姿を隠し、

旅立つの姿を遠くから見ていた。

父の見送りが大層嬉しいらしく、見とれる程愛くるしく微笑んでいたのだが、

いざ去る時が来るとせわしなく辺りを見回して…ついに涙ぐんでしまった。

娘の珍しい様子に信長も膝を折り顔をのぞき込んだ。


「捜しておるのは――才蔵か」

「近くに…おりますか?」

「ああ、おる。呼ぶか」

「結構です、お側におられるのならそれで…」


頬に朱を挿し、小粒の雨が長い睫を濡らす。

小袖で口元を押さえ、声を押し殺すために蕾の形をした唇は堅く結ばれていた。

才蔵は幼心に何とも言えぬ気持ちが

己の胸の辺りを引っかいたり打ち据えたりするのが解った。


「また、遊んで、下さい」


途切れ途切れにそれだけ漏らすと、父に見送られては都を去っていった。





















「あの姫か」

「その姫だ」


久方ぶりに沐浴を許され、湯気の立ちこめる湯船に二人肩を浸けながら、五右衛門が聞いた。


「それで?」

「余命が無いらしい」











挨拶も早々に才蔵と大切な話がある、とを下げさせ、信長は口を開いた。

その話によれば。

下った殿には祖母たちが住まっていたが、

健やかならまだしもここへきては余命の宣告を受けてしまった。

すると更にも増して煙たがられる。

所用で訪ねた利休が目にした物は、腫れ物のように扱われ、

小さな部屋に閉じこめられたの姿であった。

見るに見かねた利休はすぐに信長へ宛てた文を都へ送った。

それを目にした信長は、を独り寂しく死なせる訳にはいかぬと、

自分の元へ呼び戻すに至ったのだった。




は生まれながらに凡たる女の十は聡明で、

 また十は我慢を強いられてきた。

 我慢をさせた分にはほど遠いと承知の上で、

 儂は娘の願いをひとつでも多く叶えてやりたいのだ」


返事の代わりにより一層深く頭を垂れた。


「斯様になっても尚、嫁に遣れよこせという下賎もおるが…

 あれは子を生めぬ。余命もじき尽きる。

 満足に生んでやれなんだ…されど」


信長は語気を強めた。


「あれを生娘で死なせてはあまりにも不憫でならぬ」




青白さを増し、以前より更に儚げに笑うようになったに、

父は何か望みはないかと聞いた。

するとは嬉しそうに微笑み、たった一つの願い事を口にしたと言う。


「才蔵に会いとうございます」











はお前を好いておる」

「しかし」

「良く聞けい!」


覇王のそれは淀みのない声音であった。


がお前に抱かれたいと切望し、またお前もを抱きたいと望むなら――構わん。睦め」

「っ…信長様!」

「これは命令では無い」

「わ…私は!信長様の仰られる下賎以下、

 身分無き者、ただの――陰でございます」

「良い。あれが愛したのは霧隠才蔵――紛う事なきお主なのだ」











「…蔵、おい!才蔵!」


五右衛門に肩を叩かれてそこで我に意識を取り戻した。


「のぼせたかァ?」

「…そうかもな」


五右衛門は手ぬぐいを湯に浸すと、空気を閉じこめズブズブと気泡を蒔いた。


「……気持ちは察する。最後まで護れよ――姫様の事」

「ああ――そのつもりだ」











その晩から任務――というか――もちろん護衛ではあるのだが――

の孤独を少しでも払拭せんがため、昼夜を問わずの側にお供した。

と言っても、元気に出歩く訳でもない。

良くて庭か茶室、ほとんどは居室に留まり横になるか外の景色を見つめている。

しかし離れていた時間を埋めるように、

は会えずにいた間の話をそれはそれは熱心に聞いてきた。

才蔵も最初は戸惑っていたが、少し話してやるだけで彼女の表情がたちまちに華やぐので、

つい強請られるままに任務での失敗談や、半蔵、五右衛門…

そんな話をしてやる事が楽しく感じ始めていた。

はそれを熱心な様子で一生懸命に聞く。

笑い、悲しみ、困り、驚く顔は、どれも病の陰を忘れさせる程に美しかった。




彼女は夜を愛していた。

なぜだと問うと、月が見えるからだと微笑む。


「…―私も夜は好きです」

「なぜ?」

「私の姿を隠してくれるからです。夜は味方だ」


そう言いながら小さく微笑んでいる自分に気付く。

と肩を並べ、月と、そして瞬く星を心行くまで見つめて、

そうして夜気が冷たくなる頃に「御身体に障ります、お休み下さい」と才蔵は言う。

するとは決まって才蔵の手を握り、小さく囁く。


「私が眠るまで、こうして握っていて下さい」


狂おしいまでの感情の波が喉を圧迫する。

しかし才蔵はそんな様子を微塵も見せず、無言で頷き、手を握ってやった。

眠るまでと言わず、明朝を迎えるまで握ってやるのが才蔵の仕事になっていた。

それは頼まれた事でも命令でもない。

ただ、こうして自分が手を握ってやれば、

が眠りの内に帰れない場所へ行ってしまう事を回避出来るような気がしての事だった。

彼女が目を覚ます直前に姿を隠し、呼ばれるまで気配を消す。

知ってか知らずか――は毎朝、

先刻まで才蔵の握っていたその小さな手を頬に当て、愛しげに笑む。

才蔵の心中はやはり穏やかではない。





















小雪が景色を白く染める季節。




才蔵はに背を向け、障子越しに控えている。

は召し物を着替えながら問いかけた。


「庭に千両がありましたね」

「はい。見事な朱い実が付いておりました」

「見に参りましょう」

「それは―…構いませんが御体調は宜しいのですか」

「一目で構わないのです…ほんの少しだけ」


才蔵は困ったように口元を綻ばせた。


「お気持ちは解ります――良いでしょう。

 ずっと居室に居ても気が滅入ります。それに…今日の様な日に、

 雪栄えする千両を拝まないというのも酷な話です――、…様?様!」


弾かれたように戸を開けると、

そこには着替えの途中、寒々しい格好で床に倒れるの姿があった。


様!!!」


才蔵は打ち捨てられていた着物を手繰り寄せ、の身体を包んで抱き抱えた。

やけに白く澄んだ肌が痛々しかった。

無我夢中で医師の元へ運び込む。

処置も早く、幸い大事には至らなかった。

信長もの居室へかけつけ、愛娘の寝息が一定の調子を刻み出すのを確認すると、

空に向かって言った。


「才蔵、よくやった」


才蔵は主君からの労いの言葉に深く頭を下げた。

やがて居室からは誰もいなくなり、の寝息だけが気配を揺らしていた。

ともなく外にはしんしんと雪が降り出して、

才蔵は心労の陰を少し目元に滲ませて、の手を握った。

自分にはこれが精一杯――否…そうだ――。











眠り続けたが目を覚ましたのは、月光の差し込む静かな刻であった。

才蔵は手を握り続けている。

自分の手を握るその姿に、は一瞬驚いた表情を浮かべたが、

そっと手に力を込めると、愛しげに才蔵の手を握り返した。

雪は止んでいた。


「…――摘んできて、くれたのですか」


掠れた声には独特の色香が存分に含まれていた。


「余計な真似を致しました。お許し下さい」


目を伏せたが、そう言いつつも才蔵は後悔はしていなかった。

枕元には黒塗りの花瓶が置かれ、

それには可愛らしい小さな朱い実をつけた千両が生けられていた。

実に控えめに、一輪。


「才蔵……ありがとう」


才蔵は俯く。


「…様があんなに見たがってらっしゃったのです。

 お目覚めになった時、きっと見に行けなかった事を残念がるだろう…と思いました。

 手折るか迷っておりましたら、千両は保つ花だと利休様が教えて下さいました」







三刻程前の事――雪降る庭になど誰も訪れないだろうと高をくくり、

才蔵が何時になく不用心に庭の千両の前に佇んでいると、

あの好々爺が傘を差して現れた。警戒はしなかった。

察しのよい彼は千両を見つめる才蔵の背に向かって――、

――白には朱が映えるものです――。







「才…蔵、」

「、はい」

「私を――抱いて下さい」


そう乞うの瞳は潤み、吐き出す息は熱を帯び、身体は震えているようだった。


「っ…、なりません、そのような事」


握られていた手が離されると、は眉を垂らし、辛そうに笑った。

しかし両の手で顔を覆うと、肩を震わせ――痛ましく咽び泣いた。


「…そ…う――です、ね。私は女、として、幾らも足りま、せん、」

「お止め下さい様」

「こんな者を抱け…なんて、そんな酷な話は」

「そうではありません!」

「いいえ、ごめんなさい、才蔵…どうか許して下さ」

「私は…ッ!」




ぎゅっと己の手を握り込む。

爪が掌を抉る。

唇を噛み、苦しげに吐き出す。




「貴女の身をっ…案じているのです…!!」


雪はその苦言をあまねく吸い取る。

またすぐに辺りは静寂に包まれた。







しかし空気は――揺れていた。小刻みに。熱を持って。

才蔵はの華奢で心許ない身体を胸に抱きしめてやった。

腕の中に閉じこめた存在の時間を止められれば良いのにと本気で願う。

細い指が戸惑いがちに才蔵の背を這い、

やがて二本の腕は軽やかに才蔵を抱きしめ返した。


「…思った通り…。才蔵の身体は逞しく、そして温かです」

「…様…」

「落ち着きます…−女たちの言う幸せの正体は――これだったのですね」

…っ」


抱き寄せた身体を今一度寝床に仰向け、覆い被さった。

男の仕草で。独占的に。

痩せた身体はそれでも女で、才蔵の下で数多の美しさを主張している。

肌理の細かさも、少し強ばる首筋も、上下する喉元も――死せる乙女とはとても思えない。

夜着から伸びる白い手首を、幾分も浅黒い肌をした己の手で磔が如く押さえつけた。


「…―本当に、良いのですね」

「…誰にも印を付けられずに死ぬのは嫌なのです」

「……――俺でいいのか?」

「才蔵でなくては――駄目なのです、貴方に…差し上げたい」







箍が外れる。

唇を奪いながら、衣越しに手を滑らせ震える身体をなぞってやる。

悩ましく眉根を寄せて、それに耐える――否、それどころではないのかもしれない。

汚れをしらないその肌を強く吸えば、朱い花が浮き立つ。

さながら白雪の中の千両が如き――朱。


――皮肉だが、悪くない――。


才蔵の施す愛撫に従順に翻弄される様は絶景であった。

桃色の乳房は甘く、弄べば堅くなる。

恥じらうように口元を隠す手を取って、腫れた己を障らせた。

の目が怯える。

無垢な指があどけなく微かに動く度、才蔵の欲は苦しい快楽を訴えた。

傷だらけの身体に縋る白い肌。

激しく、しかし壊れぬように慈しむ。

男は溺れた。







初めて女を充てがわれたのは十五の時。

主君の命だった。

その道の女に仕込まれる形で筆を下ろした。

技と言えば大袈裟だが、身を偽って為さねばならぬ任務も数多――様々な物を教えられた。

やはり甲斐が無い訳では無いようで、男を知らぬは苦悶しながらも

才蔵の施しに咽び、喘いだのだった。

脱力した身体を抱き起こし、腕に収めて――才蔵は涙した。


「貴女を――失いたくない」


犯した罪悪は悲しくも甘い蜜。


は重たそうに腕を上げ、濡れる頬を包んだ。



「…―ありがとう…才蔵――、」



嫌だ。



「私は」



残酷すぎる。



「幸せです」



そう呟いて、は眩しく笑った。
















はまた美しくなった。

才蔵にはそれが命を燃やすような行為に思えてならなかった。

考えすぎなら良い。あの日倒れて以来、の体調は安定している。

の身体は痛みの無い快楽も覚えた。

この行為は己の愚かさを象徴するように思えるのに、

が恥じらいつつもいじらしく甘える様子を見ると、

それに応えずにはいられない自分がいる。

才蔵に手を繋がれ連れ出してもらう月夜の散歩を、は殊更好んだ。

才蔵の肩に頭を預け、瞼を閉じる。


「才蔵が教えてくれた通り――夜は私たちの味方ですね」


狂おしい――なぜこのままでいられないのか――。




そうして雪の季節が終わりを告げる頃――の容態は一変した。

の身を案じて集まる人間は、甚だ寂しいものであった。

信長、利休――そして陰には半蔵、五右衛門、そして才蔵。

医師は首を振った。


「よくここまで保ったものです…」


大粒の汗を滲ませて、譫言のように才蔵の名前を連呼する。

見かねた信長は才蔵の名を呼んだ。


「側にいてやってくれ」

「ですが私は」

「構わん」


すでに死人のように投げ出された手を、そっと握ってやる。

怖ろしく冷たかった。

すると安心したようで、うっすらと目を開けた。


「才…、蔵…」

「ここに」

「父…上、」

「何だ」


涙が一筋、落ちる。


「ありがとう…」


こうしては吹雪く桜を見る前に、雪とともにこの世を去った。

まだ十六の若さであった。
















墓前に供えようと花を摘んだが、それは無意味に等しかった。

墓碑の上には大きな染井吉野が枝を伸ばし、桜の花弁が雪のように降り積もっていた。

味気ない切り花よりも、こちらの方がには数倍よく似合うな――とひとりごちた。







葬儀の後、才蔵は信長に呼び出された。


「あれの事をよう見届けた。礼を言う」

「私は…取り返しの付かぬ事をしたのではないでしょうか」

「戯言は聞かぬ。己が一番解っておろう」

「…――深く深く…お慕いしておりました」

「それで良い――受け取れ」


眼前に差し出されたのは、小さな守り袋と――手紙。


の遺言にある通りにした。

 この手紙と、自分の荼毘を匙ほど包みお前に渡せ、とな」

「…っ、有り難き幸せ」


才蔵が顔を歪ませ守り袋と手紙を受け取るのを見届けて、信長は強く頷いた。







気が付くと才蔵は、誰もいなくなったの部屋に来ていた。

空の寝台の横には、まだあの時の千両が懸命に生き抜いていた。

切なくなった。

が居た場所に腰掛け、微かに緊張しながら手紙を開く。

そこには――綴ってあった。

本当の愛の言葉が――。

























私の知らぬ世界を教えてくれた方。

私は至極に幸せでした。

離れる事は怖くありません。

それよりも私の面影に貴方が苦しむ事の方が今は怖ろしくてなりません。

忘れなさい。

代わりに、どうかこれだけを覚えていて下さい。

貴方は私の出来なかった事をするのです。

伴侶を娶り、子を授かり、家族をお持ちなさい。

そして私に与えて下さった幸せの何倍も幸せにしてあげなさい。

愛し、大切に護りなさい。

ありがとう。






















染井吉野は降り続ける。

薄紅の花弁は――まるで白と朱が一時でも混じり合えた事の象徴のようで――。

才蔵は言えども書けども、もう永久に返ってくる事のない相手が出した、

あの哀切の手紙に――返事を伝えに来たのだった。




「…――約束は守ろう」



思う――想う――。



「だが――――忘れはしない」




子が、所帯が、果たしてどんな存在なのか――それをに教えよう。

墓碑に積もる桜を両腕でかき集め、

才蔵は人知れず涙を流した。

ひどく甘い――香りがした――。






















★::::★::::★::::★::::★

悲恋ですよっていう切なさですね…。

まあ仕方ないです…映画、完成されてたから←

浮気、いくない(^ω^)

フラグが立ちすぎてまたひとつ…需要の無い物をさらしてしまいました。

千両、好きです。

うちではお正月の千両がまだ元気に花瓶で生きてます(笑)

2010222 呱々音