デヴィッドは“さよなら”の言い方なら、何百何千と知っていた。 言語も、パターンも。 予めインプットされた物から、後に新たに学習した物まで、全て。 だからどう言えば彼女へのダメージが一番軽く済むか、彼はちゃんと知っていた。 そのはずだった。 だが予想に反して、目の前に佇む彼女は大きなショックを受けていた。
これは最初から決まっていたことです。 あなたもご存知だった。覚悟もなさっていたはず」
彼女に対しては、いつもそうして来た。 David8が“デヴィッド”として生まれた日から、ずっと。 彼女本人から“そう”するように躾けられたのだ。 そしてこの行為に対して悪い気はしない。 むしろ心地よく、また幸福だった。 は泣いていた。深く傷ついていた。 彼の筋肉に似せた繊維は、反射的に眉を垂らしていた。 悲しかった。
「予定では一年」 「そう」
少しだけ首を傾げて俯く。 デヴィッドの好きな表情だった。
自分の理想を忠実に実現させていくための一歩に過ぎなかった。 だが不死で完璧、こちらの要求を全て満たすデヴィッドというロボットは、 彼にとって素晴らしい“息子”そのものだった。 ウェイランドは生涯で2人の子宝に恵まれた。 だがいずれもそれは娘で、ウェイランドが望んだ理想とはかけ離れていた。 敏い長女メレディスは幼少よりそれを強く感じ、父親に強く反発しながらも、 ウェイランド社における社長の完璧な右腕であろうと躍起になって人生を歩んできた。 次女は、不思議な子だった。 人の見落としやすい側面を拾い、物事を感覚的に捉えた。 父はそれを面白いと評価した。そして聡明だとも言った。 メレディスにしてみれば、そんな妹は比較される対象でしかなく、 煩わしい嫉妬を隠すため、何かにつけて邪険に扱った。 ウェイランドはデヴィッドの教育係をに任せることにした。 とウェイランドがデヴィッドと信頼関係を深めれば深めるほど、 姉妹の溝はますます歴然としたものとなっていった。
彼は誰よりも多くの知識を保有しながら、 生まれたばかりには違いなく、実際の経験には程遠かった。 だからそれらを体感させてやることが、最も重要な作業である。 教え子であり、庇護すべき存在であり、大切な親友であり――かなり早い段階から、 にとってデヴィッドはかけがえの無い愛しい存在になっていた。 ロボットとは言え、デヴィッドという存在は思考も感情も人間と同等である。 もちろんウェイランドの世話を見ることもまたデヴィッドの仕事である。 だからデヴィッドの“世界”が広がるに連れ、 と彼が一緒にいる時間は必然的に減っていった。 正直なところ、減らされていく、という感覚に近かったが。 だからウェイランドが床についている時間が、 とデヴィッドが何にも邪魔されずに会える大切なひと時となっていた。 ふたりが密やかに言葉を交わす場所は、たいていの部屋の中庭だった。 それ以外の場所で――たとえばメレディスに見つかろうものなら、 彼女は明らかな敵意を持って、ふたりに向かって心無い言葉を投げかけるから――。 その中庭は特別で、人工の映像や体感装置ではなく、 曾祖母が大切に育てていたという英国式庭園をそのまま植え替えて残した、本物の庭だった。 芝生に腰を下ろし、足を投げ出して、いつも通り他愛もない話に夢中になる。 ふいにデヴィッドはこう述べた。
は首を傾げる。
「父が言うのは温もりを持つ“魂”の存在じゃないわ。 私に言わせればあれは宗教上の“魂”のお話よ」
人って、無いものは補うように出来てるのよ。 視力を失ったら、音で視野を掴む。 声を失ったら、声帯に似せて喉の形を変える。 人は器よ。 器に魂が入っているから動くの。考えるの。感じるの。 デヴィッド。あなたは動くし、考えるし、感じるじゃない。 私に言わせれば――あなたはもう…“魂”を持ってる」
デヴィッドは自分の中に、なにか特別な感情が込み上がるを感じた。
あくまでこれは…私の意見よ」
「光栄だわ」
彼もまたそっと頬ずりするように顔を傾けた。 思わず目を閉じて、うっとりとした声で彼は言った。
「ねえデヴィッド――なにかに例えてみて?」
そのまま今度は手を髪に差し入れ、指先で味わうように優しく絡める。 も瞼を閉じた。
顔をくしゃくしゃにして嬉々として言った。
柔らかくて、溶けてしまいそうなくらい軽くて、くすぐったい。 それに太陽の香りがする。 の髪はたんぽぽの綿毛にとてもよく似ています。 ――どうかしましたか?顔が赤い」 「…ずるいひと」 「よく言われます。もちろん主に――あなたにですが」
デヴィッドただ1人のためだけに向けられた笑顔――。 彼は目を細め、けれどもどこか切ない声で静かに訊いた。
閉じ込めるように抱きしめる。 優しく、強く、“魂”を逃がさないように。
「そうみたいね」 「辛くないですか」 「デヴィッドと居るときは、とっても楽よ」 「……いつ――死ぬんだ」 「…あなたが宇宙に、行く前には」
デヴィッドは顔を歪めた。 忌々しかった。 涙が出た。 溢れた。 止まらなかった。
「教えてあげる」
まるで言い聞かせるように。
「それは記憶という意味ですか?」 「あなたを構築するもの“全て”によ――わかる?」
中庭に降り注ぐのは月と星の光だけ。 この隔たりはロボットと人間の間の問題なのだろうか。 そうではない。 明らかな隔たりはそう――“死”だ。 デヴィッドは“魂”が欲しいのではない。 今は何より“死”を掌握する力が、欲しかった。
独善的だと思った。 彼女の呼吸が乱れ、脈が早くなる。 体温が上昇し、頬が紅潮する。
「の反応に興味があります――試してみたい」 「……」 「ロボットでは不愉快ですか?」 「そんなこと…!」
それはデヴィッドの仕掛けた甘い罠。
「…本当に…本当にずるいひと」 「大丈夫――」
デヴィッドはこれこそが、この柔らかな彼女の唇こそが、 自分がずっと触れたいと願っていた場所であることに気が付いた。 “死”の気配を遠ざけるには“生”を感じるしかないと本で読んだ。 必ずしも有効ではない――が、もう余計な言い訳は無用だった。 これはすべて彼の“魂”が望んだことなのだから。
雑でごめんなさいね…。
こう、見た日にその勢いで日記代わりにさささっと。
「たんぽぽ」って言わせたくて、つい。
せめて温もるキスが欲しいデヴィッドくん。
20120830 呱々音
|