デヴィッドは“さよなら”の言い方なら、何百何千と知っていた。

言語も、パターンも。

予めインプットされた物から、後に新たに学習した物まで、全て。

だからどう言えば彼女へのダメージが一番軽く済むか、彼はちゃんと知っていた。

そのはずだった。

だが予想に反して、目の前に佇む彼女は大きなショックを受けていた。


「どうか顔を上げてください。

 これは最初から決まっていたことです。

 あなたもご存知だった。覚悟もなさっていたはず」


デヴィッドはそっと手を伸ばすと、の頭を撫でてやった。

彼女に対しては、いつもそうして来た。

David8が“デヴィッド”として生まれた日から、ずっと。

彼女本人から“そう”するように躾けられたのだ。

そしてこの行為に対して悪い気はしない。

むしろ心地よく、また幸福だった。

は泣いていた。深く傷ついていた。

彼の筋肉に似せた繊維は、反射的に眉を垂らしていた。

悲しかった。


「…あとどれくらい一緒にいられる?」

「予定では一年」

「そう」


彼女は人工物よりも遥かに美しい睫毛をそっと伏せると、

少しだけ首を傾げて俯く。

デヴィッドの好きな表情だった。


「少しでいいの。デヴィッドの時間を私に分けてくれないかしら」


彼は幸福を齎す物質が体中を駆け巡るのを感じだ。


「もちろん可能な限り、喜んで」
















ピーター・ウェイランドがデヴィッドを生み出したのは、

自分の理想を忠実に実現させていくための一歩に過ぎなかった。

だが不死で完璧、こちらの要求を全て満たすデヴィッドというロボットは、

彼にとって素晴らしい“息子”そのものだった。

ウェイランドは生涯で2人の子宝に恵まれた。

だがいずれもそれは娘で、ウェイランドが望んだ理想とはかけ離れていた。

敏い長女メレディスは幼少よりそれを強く感じ、父親に強く反発しながらも、

ウェイランド社における社長の完璧な右腕であろうと躍起になって人生を歩んできた。

次女は、不思議な子だった。

人の見落としやすい側面を拾い、物事を感覚的に捉えた。

父はそれを面白いと評価した。そして聡明だとも言った。

メレディスにしてみれば、そんな妹は比較される対象でしかなく、

煩わしい嫉妬を隠すため、何かにつけて邪険に扱った。

ウェイランドはデヴィッドの教育係をに任せることにした。

とウェイランドがデヴィッドと信頼関係を深めれば深めるほど、

姉妹の溝はますます歴然としたものとなっていった。






はデヴィッドに様々な“世界”を教えた。

彼は誰よりも多くの知識を保有しながら、

生まれたばかりには違いなく、実際の経験には程遠かった。

だからそれらを体感させてやることが、最も重要な作業である。

教え子であり、庇護すべき存在であり、大切な親友であり――かなり早い段階から、

にとってデヴィッドはかけがえの無い愛しい存在になっていた。

ロボットとは言え、デヴィッドという存在は思考も感情も人間と同等である。

もちろんウェイランドの世話を見ることもまたデヴィッドの仕事である。

だからデヴィッドの“世界”が広がるに連れ、

と彼が一緒にいる時間は必然的に減っていった。

正直なところ、減らされていく、という感覚に近かったが。

だからウェイランドが床についている時間が、

とデヴィッドが何にも邪魔されずに会える大切なひと時となっていた。

ふたりが密やかに言葉を交わす場所は、たいていの部屋の中庭だった。

それ以外の場所で――たとえばメレディスに見つかろうものなら、

彼女は明らかな敵意を持って、ふたりに向かって心無い言葉を投げかけるから――。

その中庭は特別で、人工の映像や体感装置ではなく、

曾祖母が大切に育てていたという英国式庭園をそのまま植え替えて残した、本物の庭だった。

芝生に腰を下ろし、足を投げ出して、いつも通り他愛もない話に夢中になる。

ふいにデヴィッドはこう述べた。


「私には“魂”がないから」


そう言いながら、彼は自分の言葉に微細に傷ついていた。

は首を傾げる。


「“魂”って――そんなに必要?」


デヴィッドは笑う。


「お父様が聞いたらお怒りになりますよ」

「父が言うのは温もりを持つ“魂”の存在じゃないわ。

 私に言わせればあれは宗教上の“魂”のお話よ」


はデヴィッドの両の手をしっかり包み込むと、彼の綺麗な目を見つめた。


「よく聞いてね、デヴィッド。

 人って、無いものは補うように出来てるのよ。

 視力を失ったら、音で視野を掴む。

 声を失ったら、声帯に似せて喉の形を変える。

 人は器よ。

 器に魂が入っているから動くの。考えるの。感じるの。

 デヴィッド。あなたは動くし、考えるし、感じるじゃない。

 私に言わせれば――あなたはもう…“魂”を持ってる」


確信に満ちた声で言い切る。

デヴィッドは自分の中に、なにか特別な感情が込み上がるを感じた。


「…押し付けがましいことを言ってごめんね。

 あくまでこれは…私の意見よ」


彼は今にも泣き出しそうな顔で微笑んだ。


「その意見を私の拠り所にしても?」

「光栄だわ」


はデヴィッドの肩に頭を預けた。寄り添うように。

彼もまたそっと頬ずりするように顔を傾けた。

思わず目を閉じて、うっとりとした声で彼は言った。


の髪は…柔らかい」

「ねえデヴィッド――なにかに例えてみて?」


デヴィッドは小さく頷くと。

そのまま今度は手を髪に差し入れ、指先で味わうように優しく絡める。

も瞼を閉じた。


「――たんぽぽ」


デヴィッドは急に身体を離すと、の肩に大きな両手を添え、

顔をくしゃくしゃにして嬉々として言った。


「たんぽぽの綿毛だ。

 柔らかくて、溶けてしまいそうなくらい軽くて、くすぐったい。

 それに太陽の香りがする。

 の髪はたんぽぽの綿毛にとてもよく似ています。

 ――どうかしましたか?顔が赤い」

「…ずるいひと」

「よく言われます。もちろん主に――あなたにですが」


は恥ずかしそうに、けれども蕩けそうな表情で笑う。

デヴィッドただ1人のためだけに向けられた笑顔――。

彼は目を細め、けれどもどこか切ない声で静かに訊いた。


「――あなたを抱きしめても?」


彼女は頷く。

閉じ込めるように抱きしめる。

優しく、強く、“魂”を逃がさないように。


「また――痩せましたね」

「そうみたいね」

「辛くないですか」

「デヴィッドと居るときは、とっても楽よ」

「……いつ――死ぬんだ」

「…あなたが宇宙に、行く前には」


大丈夫――彼女には今、見えていない。

デヴィッドは顔を歪めた。

忌々しかった。

涙が出た。

溢れた。

止まらなかった。


の“魂”は器から抜けたらどこへ行くんですか」

「教えてあげる」


はデヴィッドの濡れた頬をそっと包んでやる。

まるで言い聞かせるように。


「デヴィッドの“心”に宿るの」

「それは記憶という意味ですか?」

「あなたを構築するもの“全て”によ――わかる?」


もデヴィッドと同じように、涙に頬を濡らしていた。

中庭に降り注ぐのは月と星の光だけ。

この隔たりはロボットと人間の間の問題なのだろうか。

そうではない。

明らかな隔たりはそう――“死”だ。

デヴィッドは“魂”が欲しいのではない。

今は何より“死”を掌握する力が、欲しかった。


「…わかります」


デヴィッドはの頬に、首筋にそっとキスを落とした。

独善的だと思った。

彼女の呼吸が乱れ、脈が早くなる。

体温が上昇し、頬が紅潮する。


「デヴィッド…今日のあなた…少し大胆すぎる」

の反応に興味があります――試してみたい」

「……」

「ロボットでは不愉快ですか?」

「そんなこと…!」


――引っかかった。

それはデヴィッドの仕掛けた甘い罠。


「では、どうか」

「…本当に…本当にずるいひと」

「大丈夫――」


デヴィッドの顔が近づき、錦糸の髪がさらりと一束こぼれ落ちる。


「優しくします…誓って」


そっと唇を塞ぐと、切なげな声が喉の奥で漏れた。

デヴィッドはこれこそが、この柔らかな彼女の唇こそが、

自分がずっと触れたいと願っていた場所であることに気が付いた。

“死”の気配を遠ざけるには“生”を感じるしかないと本で読んだ。

必ずしも有効ではない――が、もう余計な言い訳は無用だった。

これはすべて彼の“魂”が望んだことなのだから。




















































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雑でごめんなさいね…。

こう、見た日にその勢いで日記代わりにさささっと。

「たんぽぽ」って言わせたくて、つい。

せめて温もるキスが欲しいデヴィッドくん。

20120830 呱々音