【はじめに】

カーライル連載『Rose crescent』を読んで頂けますと

より一層お話を楽しんで頂けるかと思います。

時系列的には、15話ヒロインがヴァンパイアになるまでの"数ヶ月"のお話です。

(以下は連載未読でも、お読み頂ける内容です)
























「料理を作ってくれないかな」


愛する吸血鬼はこう言った。





























平穏なアフタヌーンティーの最中だったは、

ティーカップに口を付けたまま固まってしまった。

カーライルの整った顔は涼しげに口の端を上げて、

にこやかにを見据えている。


「……ええと、ごめんなさい。

 もう一度言ってくれる?聞き取れなくて」

「何て聞こえたんだい」

「……"料理"って聞こえたわ」

「そう。料理を作って欲しい」


紳士は改めてそう告げた。

その姿があまりにも嬉しそうで、

はなんと聞き返したらいいのか少々考えてしまった。


「……それは――構わないけど…、

 でも、ええと…まさか、

 …あなたが食べる訳じゃないわよね?」

「私が食べるんだよ」


カーライルは美しく微笑んだ。

はこの微笑みが大好きだった。

大理石のようになめらかな透けるほど白い肌、

白金の髪、長い睫に縁取られた琥珀色の瞳――慈愛に満ちた優しい眼差し。

それは映画俳優も舌を巻くほど完璧な容姿。

そんなカーライルの側にいる事を許されたは、

彼にとってもまた、完璧な女性だった。

真雪のように白い肌、ダイアモンドをはめ込んだように輝く瞳、

瞼の上で切りそろえられた黒曜石のように艶やかな髪、

熟れた林檎のように赤い唇、彼の名を呼ぶしっとりと美しい声。

彼女の愛らしい容姿は、まるで童話の姫君のようだとカーライルは思っている。

お互いに自分の運命の相手を完璧だと崇拝していた。

だが、カーライルとの間には大きな差異があった。

二人は違う"モノ"だった。

カーライルはヴァンパイアで、は人間だった。

いずれもヴァンパイアになる身ではあるが――。

ヴァンパイアに必要なのは血であり、暖かい料理では無かったから、

は混乱して、改めてカーライルに説明を求めた。


「明日はバレンタインだから。

 君とディナーを楽しみたい」


カーライルはの手からティーカップを取ってそっと机に置くと、

の空いた手を両手で包み込んだ。

その手はとても冷たい。

は彼の血の通わない頬をそっと指で撫でた。

当たり前のように冷たかった。

いつか彼が口にしていた事を思い出す。

人間の食べ物は、ヴァンパイアにとっては"無益"そのものである。

食べられない訳ではない。

しかしそれは人間が土を食べているような物だ、と。


「…カーライルが…そう望むなら」


でも――。

食べて欲しくない、と思った。

だってそんなのは――滑稽だ。切ないだけだ。

が「血を飲みたい」と望んだら、きっとカーライルだって止めただろう。

それと同じ事だ。


「でも、やっぱり、食べないで。

 苦痛を伴う人間の真似事なんて私はあなたにさせたくないの。

 綺麗なお皿の上に料理を乗せて、向かい合うだけできっと十分幸せだわ」


カーライルは諭すように、痛いくらいに美しく、哀しく微笑んだ。




、私にも――夢があった。

 愛する人の作った温かい料理を食べるという夢がね。

 それはわざわざ口に出すまでも無い――ごくありふれた夢だよ。

 私はそれを万人に訪れるものだと信じ込んでいた。

 でも――どうやら、そうじゃなかった」




宝石のような瞳が塗れた光を帯びて、一層哀しげに笑う。


「私はかつて人間だったから。

 人間の目映い幸福の正体を覚えているんだよ。

 …もう決して手には入らないと思っていたけどね」


カーライルの目つきが射抜くように真っ直ぐを見つめる。

がこの眼差しに決して抗えない事を承知で、

彼は彼女を絡めとるように見つめた。

カーライルの視線に晒されている場所は、に熱を持たせる。

故意だとわかっていても、の中の本能が

カーライルという存在を求めて体中を暴れまわっていた。


――君の気持ちはよくわかる。

 とても有り難いよ。

 でもこのチャンスは、何度もある事じゃない。

 君だっていずれ……変わってしまうからね」


カーライルの睫が哀しげに伏せられる。

彼がの事を"変身"させたがっていないという事は、もよく知っていた。

魂の伴侶、運命の相手、ソウルメイト――呼び方はなんでもいい。

とにかくとカーライルは狂おしいまでに互いを愛してしまった。

はカーライルの心優しい信念を、出来ることなら尊重したかった。

しかしあの忌まわしい事件以来、絶望の末に瀕死の状態にまで陥り、

カーライルの血肉となって"死にたい"と懇願した。

彼はそんなにまで追いつめられたを見て、生きる事を諦めず、元気になって、

もう一度の笑顔を見せてくれたら、自分と同じ"モノ"に変えると約束した。

今、が生きていられる唯一の希望は皮肉にも

"ヴァンパイアに変身させる"というカーライルの約束だけだった。

がヴァンパイアになれば…それこそカーライルのささやかな夢は叶わなくなる。

人間とヴァンパイアといういびつな関係の、

今この瞬間でしか、あり得ないのだ。

変わってしまえば――必要なくなる、から。

たとえそれがいかに惨めな行為で、狂気じみていて、虚しくとも――。

握られた手にうっすらと力が込められたのを感じて、

はひとつ、うなずいた。


「……精一杯、作るわ。

 ねえ……人間だった頃のあなたは――なにが好きだったの?」

























翌日、幸運にも空は分厚い雲に覆われていた。

これに気を良くしたとカーライルは、久々に遠く離れた市内まで、

二人連れだって食材の買い出しに出かけた。

恋人たちの愛を祝う特別な日。

街は愛をささやき合う人たちで溢れている。

それはとても微笑ましい光景で、

も負けじとカーライルの腕にしがみついた。

自分の小さな歩幅に合わせて歩くカーライルのさりげない優しさが、

はとても嬉しかった。

今日という愛の日に浮かれた男たちですら、皆愛らしいの姿を目で追うし、

女たちもまた、当然のようにカーライルの完璧な容姿に目を奪われていた。

ブティックの並ぶ通りを個人的な買い物も済ませつつ歩いて、

市場とスーパーで食材を買って車に詰め込んだ。

ちょっと買いすぎたな、とは思った。

























いつもとは比べものにならないくらい

たっぷり時間をかけてゆっくり料理をすると決めていた。

カーライルが人間だった時に好きだった食べ物を聞いたとき、

は胸が締め付けられるような思いがした。

「子供の頃から母の作ってくれたミートパイが大好きだった」と彼が口にした瞬間、

は一瞬、呼吸を忘れたほどだった。

母親が作ってくれたであろう大きなミートパイにかぶりついて、

幸せそうな笑みを浮かべる幼いカーライルの姿が、

まるで自分の目で見たかのごとく、それは鮮明に網膜に蘇るようだった。

切なさと愛しさが入りまじった、言い表す事のかなわない感覚が胸を這う。

今やその好物は、意味を失っているのだ。

体内に入れたとてなんの利益をもたらさない。

暖炉の灰と同じだ。

――それでも。

カーライルが"ミートパイ"という記号に、

"愛する人の作った温かい手料理"という意味を見いだせるのなら。

は精一杯の愛情を込めて作ろうと心に誓い、

夢中になって料理に打ち込んだ。


――手伝っても?」


控えめにそっと囁かれた声。

カーライルはにこやかに優しく微笑んでいた。


「ええと……じゃあ、そうね、こうして――こんなふうに、

 ポテトをマッシュしてくださるかしら?」

「喜んで」


二人でキッチンに立つのは、くすぐったいような、変な感じだった。

これが仲の良い普通の夫婦なら、良くある、有り触れた、

当たり前の事をしているだけだろう。

それでも。

カーライルとにとっては、

もう永遠に無いかもしれない……とても貴重な時間だった。

料理には付き物の、小さなハプニングと楽しいおしゃべり。

笑いが絶えなかった。

色合いも完璧に、とても美しく盛りつけをこなすカーライルの才能に、

は感嘆の溜息を吐いた。


「さすがね…!すごく素敵」

「とても楽しいよ」

「美味しそう」

「奇遇だね…私もそう思ってた」


その台詞にふたりは声を上げて笑った。

カーライルは、やはり楽しみにしていたのだ。

たとえ砂や土や灰を食べるのとそう変わらない行為だとしても。

彼は"これ"を今日まで密やかに願っていたのだ。

はもう必要以上に嘆かず、彼のしたいように任せよう、と思った。


「……全部食べなくていいって、先に言っておくわね」


カーライルは返事の代わりに、いつもそうするように、

の額の丸みに、そっと口吻を落として応えた。

テーブルを整え、色鮮やかな――といってもも小食だから、

量は少なく種類を多くした――料理をところ狭しと並べ、

昼間が選んだワインを互いのグラスに注ぐ。

グラスがカチン、と音を立てて、今宵、一夜限りのディナーが幕を開けた。

過剰に意識しないように心がけていたが、それは無理な相談だった。

カーライルの病的に白い手が、スープに手を伸ばした時、は小さく息を飲んだ。

だが彼はまるでそれが何ともない行為とでも言うように、

さした乱れもなく、ごく自然に租借して見せた。

初めて見るはずのその姿に、妙な親しみを覚えて、 もとにかく今は抗うことはせず、

彼の盛りつけてくれた絵画のような料理にナイフを入れた。

楽しいおしゃべりの合間に、カーライルはおもむろに聞いた。


「これは…手で食べてもいいかな」

「私もかぶりついちゃいたいなって思ってた」


クスクスと笑い合って、ミートパイに歯を立てる。

は必死になって、パイの味に集中しようとしていた。

でも――。

ふと上げた目線の先で、カーライルはを見つめて幸福そうに微笑んでいた。


「ありがとう――

 とても懐かしい味がするよ…やっぱり美味しいものだね」


まるで香ばしいパイ生地と、肉の味が――

カーライルの舌にも伝わっているのかと、本気で錯覚するほどだった。

そんな事、絶対に有り得ないというのに。


「愛する妻の手料理を食べられた私は、本当に幸せ者だよ」


そういって幸せそうに微笑んだ彼を見て、

は居ても立ってもいられず、席を立ちカーライルの首にしがみついていた。

強く抱きついて、彼に見られないよう静かに涙を流した。


「お馬鹿さん。美味しくて当然なのよ。

 愛情を…ううん。愛情しか、入れてないんだもの」


愛すべき愚かさと、思いやりと――。

はこんなにも優しい存在、彼の他にいるはずないと思った。

カーライルはを労るようにそっと、しかし力強く抱きしめた。

愚かな幻に付き合ってくれた、愛すべき恋人――妻に、心の底から感謝した。

不毛だとわかっていても。

虚しいだけだとわかっていても。

愛は痛いほどに伝わり、この心を打ち震う。


「――カーライル、」

「なんだい?」


涙を拭いながら、気丈に彼の瞳を見つめて、は言った。


「デザートはいかが?」


カーライルは弾かれたように声を上げて笑った。


「もちろん頂くよ――可愛い奥さん」

























結局、忠告は優しさに却下され、食事はほとんど綺麗に完食された。

気持ちばかりの差かもしれないが、

それでも男性にしては少なく盛りつけておいて良かった、とは思った。

楽しそうに食器を洗うカーライルの姿が新鮮だった。

それからソファに寝ころび、カーライルの胸の上に寝そべりながら、

彼の好きな映画を観た。

モノクロのその映画は、切ないラブストーリーだった。

美しいヒロインは愛を知り、愛に生きて、愛に死んだ。

カーライルは甘える子猫を撫でるように、

無意識のうちにの形良い頭の丸みを撫でている。


「さあ――そろそろ眠る支度をしておいで」


返事の代わりに、は彼の唇に唇を押しつけた。

そして甘く微笑めば、彼がより一層美しい微笑みを返してくれることを、

は知っていたから。

結果として、想像以上に完璧な笑みを返されて、

毎回心臓が暴れて目眩がする程なのだが――。

そしてそれに満ち足りると、は聞き分けよくバスルームへ向かうのだった。

























ヴァンパイアは眠りを必要としない。

だがカーライルは毎晩一度も欠かす事なく、に添い寝をしていた。

彼の甘い吐息は、悪夢を遠ざけ、を甘い夢のふちへと誘う。

がシャワーを浴びて、髪を乾かしてベッドルームに戻ると、

カーライルがベッドの上で待っている――というのが約束事になっていた。

にとって一日のうちで、一番安らかな時間だった。

ワインのせいか心なしフワフワとした心地よさが纏わりつくような感覚。

普段通り、何ら変わりなく、当たり前のようにバスルームの扉を開けて――。









は目を見開いて思わず息を飲んだ。









バスルームには――所狭しとキャンドルが灯され、

バスタブに張られた湯船はバラの花弁で埋め尽くされていた。

そしてソープディッシュには真新しいバラの石鹸と、

バレンタインのカードが添えられていた。

高鳴る鼓動はうるさくの耳をひっかいた。

震える手でなんとかカードを開くと、

見知った美しい文字が愛を歌っていた。













最愛の人、


聞き飽きた愛の言葉だと

君は笑うかもしれない。

それでも僕は

これから先も永遠に

君の隣で愛を囁き続けよう。

心から愛してる。













英国式のバレンタイン――つまり、無記名。

カードを送る相手がたとえ思いの通じた恋人や夫婦でも、

差出人の名前は伏せるものなのだ。

もちろんカードの送り主の正体は分かっている。

この風習の小粋な所は、自分に対して、

名前も明かせぬほど深い愛を抱いている相手がいるのだという

想像を膨らませる、謎めいた密やかな楽しみが含まれているのだ。

は感動のあまり、言葉を失い、2、3粒の綺麗な涙で頬を濡らした。

そして「ありがとう」と呟いてカードにそっと口吻けると、

最愛の人の名前を呼んだ。


「カーライル、」

「なにかな?」


当然のように、カーライルはもうそこにいた。


「おや、すごいね。いったい誰かな。

 こんな手の込んだ贈り物をする君のファンは」


感動に瞳をきらきらと輝かせて自分を振り返ったを見て、

カーライルは甘い思いが全身に広がっていくのを感じ、心中で密かに噛みしめた。

冷たい指先でそっと頬を撫でてやる。


「…気に入った?」


は大きく頷くと、眩しいほどに顔で笑った。


「ええ……とっても。

 せっかくだもの、一緒に入らない?

 ひとりで入るなんて…なんだかもったいなくて」


キャンドルの明かりがバスルームのタイルに反射して、

ゆらゆらと空間を揺らす。

肺を満たす強烈なバラの香り。

肌に纏わりつく鮮やかな深紅の花弁。

見つめ合って、たまにそっと微笑み合う。

先刻までのディナーに反するように、

二人は言葉を用いない眼差しの会話に興じた。

























カーライルは彼らしく、とても紳士的に、

の塗れた髪を落ちる滴を、タオルで拭ってやった。

写真の中に切り取られたみたいに、二人は鏡の中で微笑む。

背中から甘えるように腰を抱きしめられ、

は擽ったそうに声を上げて笑った。


「本当に素敵な贈り物だったわね」

「そういえば――まだ君が見つけていないプレゼントが

 寝室にあったみたいだけど?」


カーライルはいたずらっ子のような笑みを浮かべると、

の瞼にそっと手を掲げ、視界を奪ってしまった。

そして少しだけ耳元に顔を近づけて

「良いと言うまで目を開けてはいけないよ」と囁いた。

の首筋は一瞬緊張を帯びたが、従順に首を縦に振る。

手を引かれ、扉が開かれる音がする。

の鼓動が早くなる。

カーライルはの背後に立ち、小さな肩に手を添えると、

耳元で「良いよ」と囁いた。

身体中をうるさいく暴れまわる心臓を押さえつけるように、

は胸に手を添えて、怖ず怖ずと瞼を持ち上げる。

すると――。

目の前に現れた光景は、見慣れた寝室の姿ではなく

辺り一面、足の踏み場も無く飾られた、バラの花。

それはまるで深紅の洪水だった。

言葉を失い、立ち尽くし、夢のような光景に

はただただ感動する事で精一杯だった。

カーライルに肩を撫でられているのに気がついて、

そこでようやく時間の存在を思い出した程だった。

なんとかこの思いを言葉にしたい。

は強くそう感じた。


「どうしよう……こんなの、」


肩に置かれた彼の手を、そっと握る。


「愛しか感じないわ」


カーライルは涙声の愛しい人の後頭部に、そっと口吻を落として言った。


「その言葉…送り主もきっと喜ぶよ」

「確か――彼と知り合いよね?

 ありがとう、って――伝えておいて下さらない?」


見え透いた、愛の正体。

"知らないフリ"は大人の戯れ。

はカーライルの逞しい胸にぴったりと身体を預け、顔を埋めた。

カーライルもまろやかな曲線を帯びるの身体を、

さも大切そうに、愛しげに、そっとそっと腕の中に包み込んだ。




















































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なんだかなー…切ないです。

おそらく公式的な慈愛のカーライルなら、

こんな辛い願い事は要求しないと思います。

でも連載だと、孤独の時間が長い設定の上、

"家族"とか"善き家庭"とか、そんなものに憧れを抱いている。

虚しいと解っていても、こういう酔狂が出来るのは

"大人"な関係でしか有り得ないのかなーって。

辛い夢ですねコレ…。

あの本当、書いといてなんなんですが!!!

20110212 呱々音