私は今、とても深い場所で眠っている。

確かにそう感じた。

だがそれもつかの間の事――意識は浮上を始める。

まどろみの淵に佇み、このまま再び夢を貪るか

それとも目を覚まして現実を受け入れるかの選択を迫られるのだ。

私は――瞼を持ち上げる方を採った。































目覚めた時、視界は灰色だった。

本も、家具も、寝具さえも――何もかも。

そうしてようやく、意識が後を追うように今自分がどこに居るかを思い出した。

(――スピナーズ・エンド)

寝返りを打てば、鷲鼻の男が眉間に皺を寄せて一定の呼吸を繰り返していた。

眠っている時でさえ厳しい顔をする――だがもう見慣れていた。












   * * *










初めて二人きりで過ごしたこの夏休暇。

私たちは互いの指に金色の指輪を輝かせながら、引き裂かれていた5年間を埋める様に、

パリ、マルセイユ、アントワープ…気の赴くままに旅を楽しんだ。

パリでは各地で行われる蚤の市をはしごして珍しい物を物色したし、

ダイアゴン横町のような魔法使い御用達の市場にも足を伸ばした。

マルセイユでは豊かなプロヴァンスならではの楽しみ方をした。

と言うのも、新学期前、セブルスには必ずやらねばならぬ事がある。

それは薬品保管庫の在庫の管理である。

不足の素材は補充し、減った薬品は作り足しておかなければならない。

その一連の作業に必要になる、珍しい草花や素材を、感性の示唆するままに二人でたくさん買い込んだ。

アントワープではやっと休暇らしく、のどかな町並みとマグルの文化的な遺産を見て回った。

だがついに旅の締めくくりに差し掛かった時、私はセブルスにひとつわがままを言った。

一緒にアイルランドに来て欲しい――と。






私の母はアイルランドの魔女だった。

それはそれは優秀な魔女だった。

名家に育ったが決して驕りはせず、慎ましく聡明で――母でありながら、私の師でもあった。

父は母を深く愛し、母もまた父を心から愛していた。

両親は私の憧れであり、一家の中心、そして導き手である母の存在は、

父と私にとって日々を充たし輝かしく送るための灯台の火であった。

そんな母は一族の集まりのために故郷のアイルランドへと旅立ち――二度と父娘の元へ帰る事は無かった。

――死喰い人の誘いをきっぱりと断ったために。

母の血と才能を恐れた故の暗殺であり“見せしめ”のためであったのだと思う。

冷たくなった母の亡骸を迎えに行ったのは父だった。

私がホグワーツで訃報を知り、着の身着のまま死に物狂いで帰った時には、

幸せな思い出で満ちていた家の面影は、母と共に死んでいた。

赤く腫らした目から涙を流し続ける父の姿を見て、この涙は永遠に枯れないと信じて疑わなかった。

以来――私はアイルランドの――母の生地の土を踏めなくなってしまった。

現実から目を背けたい訳でも無いのに、凶悪な行為の執行された場所をわざわざ確認したいとは思わなかった。

何故ならあの日――母と共に、母の生家も――、

そして多くの一族もまた、死喰い人の殲滅に巻き込まれて命を落としたからだ。

命からがら逃げた者は、私と同じ様にあの土地を疎んだ。

そこに芽吹いた思い出に後ろ髪を引かれながらも、由々しき惨劇の爪痕は遥かに強靭に心を痛めつけたのだった。




セブルスは私のこの個人的な事情も、ほぼ全ての事を識っている。

共有は義務ではないのに、彼は私を拒む真似だけは一度もした事はない。


「――どうしても…独りで行けない場所、なの」


彼とて元を辿れば死喰い人――セブルスがいくら悔い改めたとは言え、

かつての同胞の苦々しく愚かな行為の置き土産に、立ち会わねばならぬ皮肉を意味しているのだ。

それでも――。

私のわがまま――頼みを――セブルスは黙って聞いてくれた。












   * * *










私が最後にアイルランド――コークの土を踏んだのは11歳の時。

以来、二十数年ぶりに降り立ったコークの景色は――あの日の思い出のまま美しかった。

まだ恐れはあった。

だが今、私の隣には最愛の人がぴったりと寄り添ってくれている。

私を支える様に、励ます様に、しっかりと腕を組んで――彼は寡黙に私を一瞥した。

気遣いに応える様にそっと微笑む。

夜が開けたばかりの、朝露をたたえた小高い丘を越え、小さな林に吸い込まれる様にして足を進める。

さらに10分ほど歩いた場所に佇む母の生家は――…。

消えていた。

跡形も無く、潰されていた。

瓦礫ともつかないそれらの山は、雨風に晒され続けた年月と共に、自然に還りはじめていた。

魔法が使われた忌まわしい印の片鱗が、所々に残ってはいるが――、

あの日のまま置き去りにされたのは、くずおれ更地の様に家の形を無くした“家だった物”だけだった。

呆然と、無感動に、ただそれを見つめて目が剥がせずに居る。

記憶の中に在る家は――とても立派な物だった。

思い出したようにセブルスを見る。

彼は――律していた。

己の感情を律する事に、努めていた。

セブルスは承知している――私が彼を戒めたい訳では無いのだと。

彼を連れてきてしまった私の罪悪感を煽らぬよう、彼は彼なりに平静さを装っているのだから。

丘の途中で摘み取ったヒースの花束を、かつて立派な門が建っていた場所にそっと置いた。

膝を折り、掌でその場所を確かめる。

今はただの土――そう、この場所はもう――。


「――もうこの世に存在しない物に怯えていたなんて――ばかみたいね」


視界が溺れ――涙が雨粒のように落ちては土に黒い点を作る。

背中を見守っていたセブルスが、同じ様に膝を折り、私の肩を胸に抱きしめた。

肩に指が食い込む程に強く、強く――。






「…――私が、」


「セブルス」


言わせてなるものか。


そんな苦しそうな表情を、させたかった訳じゃないのよ。


ねえ――セブルス――。


(“私が全て悪いのだ”――なんて)


絶対に、言わせない。


だって違うもの――貴方は、違う。




貴方は私の、たったひとつの、最愛の――。




「私…なんだかとても疲れてしまったわ。

 …もう充分。ありがとう――セブルス…本当に、ありがとう。

 だからもう、」




そっと手を伸ばし、彼の冷たい頬に手を添える。

彼の苦悩が滲む目元を、その指でそっとなぞる。

彼は苦し気に瞼を閉じると甘んじてその行為を受け入れた。


 「――お家に…帰りましょう」























スピナーズ・エンドは世界中のどこよりも色を失っている。

でも――私は彼の家が好きだった。

…連れてきてもらったのは大人になってからだけれど。

だからこそ思ったのだ――この家は哀しい程に彼そのものである、と。

セブルスが、この家をあまり好ましく思っていないのは察していた。

けれど、私が何かに付けてこの家への訪問を希望するので、

長きに渡り彼の抱いて来た、この家に対する嫌悪も、徐々に薄れてきたのかもしれない。

ここにいれば何にも捕われず、本を広げてただひたすら読み続けても、

研究器具を所狭しと並べて実験をしても、ソファで浅い眠りに揺られてしまっても、

誰にも咎められる事はない。

彼の隣で眠る事も――目覚める事も、この場所では全て、許されているから――。












   * * *










セブルスの寝顔を見つめながら――…、母の事を考えた。

無念であっただろう。

愛する者を置き去りにして、先に旅立つなど。

哀しかっただろう。苦しかっただろう。

辛かっただろう――。

――でも。

今なら解る。

きっと――不安は…無かったのだと。

母は父を信じていた。

(あとは全て貴方に任せれば大丈夫と、思ったのかもしれない)

なぜなら私も今――そう思っているからだ。

例えこの身が闇に爆ぜられたとしても。

貴方に、セブルスに託せば――。

私はきっと微塵の不安感じる事無く、逝けるだろう。

私は貴方を信じているわ。

そして心の底から貴方を――愛しているわ――、


「――セブルス、」


眠る最愛の人の名を聞こえぬ程小さく呼ぶ。

夢の一部を演ずるように、繊細に、優しく、そっと彼の唇に唇で触れた。


「……――なんだ?」

「…起きてたの?それとも…起こしちゃった?」

「半々だ」


セブルスの指が私の唇の在処をなぞり、確かめる。


「頼む……――その言葉は言うな」


言葉を封じる様に、彼は泣きそうな顔をして私の唇に噛み付いた。

私は応える――彼は更に角度を変え、口吻けを与え続る。

幸せの先にも必ず終焉が存在する事を、私たちは識っている。

それが明日であれ60年後であれ、その未来は無責任に存在する。

心の底から深く――貴方を愛しているの。

――ずっと幼い頃から、ずっとよ、変わる事無く。


(――セブルス。例え私が、)


「それは…、我輩の台詞だ」


口吻けは止まない。


(――死んでも、貴方は、)


「皆まで言わせん」


舌の侵入を許し、一際深く啄まれ、小さな涙の粒が頬を滑り落ちる。

名残惜し気に解放された唇。

潤んだ瞳で彼の漆黒の眼を見つめる。


「我輩の魂は永遠に貴様の物だと――その指輪に誓っただろう。

 例え死が二人を分かとうとも、生まれ変わろうとも。

 我輩は貴様を――を何度でも愛す、」

「セブ…ルス…、」

「貴様は私の――導き手だ、」


一度は踏み外した道を、死にもの狂いで引き上げた。

まるで夜の嵐の海に身投げした恋人を、二本の細い腕で引き上げるようにして――。

彼は暗闇に溺れながら死にたいと悲愴に泣き叫んでいた。

その肩を…震わせて。


「…――さながら灯台の火…と言った所か」


セブルスは皮肉に鼻を鳴らして、わざとらしく蔑すんで見せる。

灰色の部屋で、彼の腕に抱きしめられて、私は――。

今この瞬間、自分が過去を乗り越えた音を聞いたのだった。

ありがとう――。

やっぱり私は――、貴方を深く深く、愛してる。

そして――貴方と共に、生きていたい。

セブルスの隣で生きて生きたい。

死の口吻がこの身を凍らせる、その日まで――。


「じゃあセブルスは――灯台守になって…ずっとずっと、見守っていてね」


満ち足りて幸せそうに笑った私と、また同じ様に――彼も笑った。



















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連載『少女に謳ったキリエ』の続編でした。

リクエスト下さった梨紗様へ。

続編という事で楽しい楽しいハネムーンへ!と思った(行った)のですが、

普段から気丈に振る舞っている聡明なさんにも、越えなければならない過去はあるわけで。

それを頼もしく必死に支えてくれるセブルスとの絆みたいな物が

ちょっとでも伝わっていれば幸いです。

ずっと描きたかったお話なので書かせて頂けて光栄でした!

ありがとうございました!これからも宜しくお願い致します!

ちなみにヒースの花言葉は「愛は再び/吾に還らじ」です。

20110702 呱々音