王妃はよく、を均整の取れた美―、つまり、林檎に例えて見せる。
は賢く勇ましい神話の女神の様に、気高い美しさを授かったからだ。
そして王はしばしば、その林檎を見事娶った男を、誉れ高い話の引き合いに出す。
の凛々しさは、生まれた瞬間から、一際多くのスパルタ人の心を捕えて止まなかったからだ。
実りある季節だった。
町の外れに生った水々しい林檎は、まるでこのスパルタの地の反映を表している様だと、つくづく思う。
赤い宝石を籠いっぱいに抱え、その艶やかで豊かな髪を風に遊ばせながら、来た道を戻ろうとした。
だが遠く町の方、その目に映ったのは、あまりにも理解しがたい光景であった。
は動じない。
その代わり、酷く冷たい目で、それを睨んだ。
あれが何にせよ、多くの王の首が持ち込まれ、その血でスパルタを侮辱した事には変わりなかった。
は動じない。
しかし、些か速さを増したその歩調は、決して穏やかな物ではなかった。
は動じている訳では無い―…確かな怒りの炎を、感じているだけだ。
あの日、ペルシアの使者がこの土地を渡すように求めてきた。
当然だが、我らスパルタの王は屈しない。
スパルタの民は、屈するという事を学ばずに死んで行く民。
王が声を発する前に、既にはひとり、冷静ではいられなかった。
レオニダス王を囲むように集まった、若く逞しいスパルタ兵の群れから、少し離れた場所で、
は彼らと同じ様に、その一部始終を聞き、目にし、なんの迷いも無く、持ち出した剣を手にした。
死んでいった父の栄誉の剣を―…切れ味は保障済みであった。
「なんと愚かなペルシア人、あの喉、切り裂いてくれる」
その静かで落ち着き払った歩みは、獲物に飛び掛る瞬間の豹にも勝る。
己の利き手に力を込め、冷静な怒りで研ぎ澄まされた神経が、相手の懐までの距離を読み取った。
今だ!飛び掛れ!と思った…正にその時だった。
の女性らしい腕を掴み、彼女の逝く手を阻む者が在った。
「がその剣を振らずとも、直にあのペルシア人は、王のお怒りに触れた事を、あの世で後悔するだろう」
「…この頭で解っていても…許せぬ事もあるのです…、ディリオス…」
の手を抑え、その血塗られた行為を止めた者は、ディリオスだった。
ディリオスは、賢く勇敢なスパルタの戦士、の誇り、愛する夫。
は形良い眉を下げると、剣を収め、大人しくディリオスに託した。
「これはすぐに…貴方に必要とされるのでしょうね…」
それと同じくして、王が高く高く時の声を上げ、それは大きく耳に響いた。
ペルシア人はあの黒き冥府へ、堕とされたのだ。
奴等の悲鳴は、の耳には届かない。
聞くに値しないからだ。
ディリオスはその光景を一瞥すると、ゆっくり愛すべき人に視線を戻し、頷いた。
「私はいずれ死ぬだろう。耐えてくれ」
短くそう告げると、亡き義父の剣を受け取り、ディリオスは興奮に猛る兵隊の中に消えていった。
王の決断は、総ては預言者の御胸に託された―…そんな夜だった。
心は落ち着かない。
だが恐怖からではない。
心躍らせる戦士たちが、この闇を揺らしているからだ。
星空に篝火をひとつだけ残し、心落ちつか無げに、は寝室へ向かった。
にしては、酷く珍しい事だった。
スパルタの赤い宝石よ、強くあれ―…と更に厳しく自分を叱咤する。
そんな軟弱な感情ばかりに、支配されてはならない。
薄い簾を掛けた寝室で、ディオリスが待っていた。
はディリオスのマントを受け取ると、慈しむ様に丁寧に畳んだ。
「おそらく明日、発つだろう」
そう打ち明ける男の言葉には、迷いの影は一片も見えなかった。
月明かりと星の瞬きで照らされた横顔が、妙に鮮明で、の心を慰めた。
「…いいえ、必ず、発つでしょう」
ディリオスはそう言った彼女の顎に手を添え、美しい目を見つめて言った。
「―私の赤い宝石よ―…、強くあれ」
は微笑む。
「解っています」
それが答えだと言わんばかりに。
ディリオスはその唇に触れようとした。
しかし阻むように、唇は形良く割られた。
「…どうか…私が、このように弱い事を言うのを…嘆いてください」
がディリオスに向かって、そのような言葉を使ったのは、これが初めてだった。
「ディリオスが戦士として生き、死ぬ場所は、どんな者にも決められないでしょう…。
でも、今夜だけは…ディリオスが生きる場所は、私の腕の中と―…、そう言って?」
この女の初めて口にした願い事は、この男を心底愛して止まない証だった。
ディリオスが手を伸ばすと、はいとも容易く彼の胸に縋り付いた。
「―…、私の愛する妻であり…そしてスパルタの赤く気高い宝石―…」
肌に這う手が、彼女の薄い衣を摘んで落とし、ひとつ口吻ける。
「それを弱いなどと…どうして私に言えると?」
ひとつ、またひとつと、絹の様な肌を、口吻けが洗う。
「私はの腕の中で、生きよう」
この柔らかい肌を味わえるのは、世界に彼一人だけだ。
この逞しい身体を味わえるもの、世界に彼女一人だけだ。
スパルタの戦士に、死への恐怖は無い。
強いて言うのならば、戦士として戦場で死ねぬ事を、男も女も皆怖れるだろう。
ディリオスとて例外では無い。
だが残される妻子を思えば、この胸は苦しさを訴えた。
ならばせめて至上の悦びを、この腕に抱かれる女神に捧げようではないか。
その身体の総てを使って、ディリオスはを愛した。
漏れる声も、伝う汗も、立てた爪も、口吻も、交わす視線でさえ…二人の物だった。
刹那に発した言葉だけが、耳に残って消えることはなかった。
「ディリオス、愛してる」
愛すべき地を家族を守るため、300人の男たちは王の前に集った。
見送りに来たの手には、大きな籠が抱えられていた。
はひとりひとりに、その林檎を配った。
赤い宝石は、戦士達の糧となる。
そしてスパルタで誰よりも勇敢で威厳ある人物に、林檎を差し出しは言った。
「スパルタの恩恵は、王と共に」
王は林檎を受け取ると、強く頷き、高らかに言った。
「スパルタが与えし赤い宝石は、我らに勝利を約束した!」
男達の雄叫びが、開放された空に向けて突き刺さる。
出兵を咎める議会の声は、もう意味を持たなかった。
王はスパルタの誇る精鋭を300人も集めたのだ―…ディリオスの胸は、躍っていた。
王が一声掛ければ、戦士は迷い無く関門へと歩き出す。
はディリオスに言った。
「お別れはいいません、だって…貴方はまだ、死んでいないもの」
ディリオスは微かに目で笑う。
もふっと笑うと、二人の大切な宝、まだ小さいながらも、立派に父を見据える息子が言った。
「ぼくがちちうえの代わりに、ははうえの手をにぎります。
でも、すぐに帰ってきてください。ははうえの手は、きっとさみしがります」
それを聞いたは、すぐにその言葉を咎めようとしたが、口に出す前にディリオスに止められた。
ディリオスは微笑み、小さな息子の頭に大きな手を乗せた。
そしてもう何も言わず、他の戦士達と同じように、広大な地を歩いていった。
愛する戦士の姿が幾分か遠くなった所で、は手を差し出し、傍らに佇む小さな戦士に言った。
「母の手は、あなたがいれば寂しくないのですよ」
小さな戦士はディリオスにそっくりな笑みを湛え、の手を力強く、握った。