サウロンによる永き支配の終わりが告げられてから、もうすぐ1年が経とうとしていた。
一陣の風が吹き抜け、柔らかな髪を撫ぜる。 一度は失われかけたこの命。 幸か不幸か――取り留めた生は、以前の様に我武者羅に荒ぶることを頑なに拒んでいた。 角が取れたとでも言うのか、否、ただ単に心を乱す事物が破滅したからかもしれない。 今この心中は不思議なほど穏やかで、またどこか丸みを帯びた気がする。 あの頃――小さな物を一様に嘲ってきた自分を思う。 指輪に、ホビットに―…小さき物ほど強靭な力を秘めているのだと、 ボロミアは身を持って知ったのだった。 ――古い傷が少し、痛んだ。 (…一雨くるかもしれないな) 疼く箇所にそっと手を添えた時、執務室の扉が開かれ、ファラミアが戻ってきた。
「………もしかしてあの橋の建設の無理な見積もりについてか?」
執務室に勤める他の者たちも一緒にくすくすと声を漏らした。
私も詳しくは存じ上げませんが…もしかすると―…」 「心当たりがあるのか?」 「…あ、いえ、私にも解りません。もし宜しければ今から行かれてはどうですか」
「ええもちろん」
焦る理由もないのでゆっくりと歩いた。 所々にある窓からは城下が臨む事が出来る。 (…―我が都は本当に、美しい) 忙殺されんばかりの公務も、この町の景色を目にすれば苦にならない。 自分の育った都は、新たな王の下で今再び潤い、活気に満ち溢れ出したのだ。 ボロミアはふっと目を細めると、その王の待つ広間へと再び足を動かした。
「お呼びでしょうかアラゴル―…失礼いたしました。エレスサール王」
ボロミアは困ったように小さく笑った。 それを察したエレスサール―ことアラゴルン―は同じ様に笑った。
「はい。ところで…」
「王よ、そのようなお言葉、」 「まあ聞いてくれ――ファラミアは才気あるあのエオウィン姫と、婚約の印を交わし、 幸せの極みなのだろう―…お前の事を心配しているようだ…私と同じ様に」 「王、私は、」
アルウェンは微笑むと、甘く美しい声音で優しく囁いた。
「…私は―…」
乗り気では無いのだが、だからと言って特別嫌な訳でも無かった。 確かに今まで縁談の話をそれとなくかわしてしたのも事実である。 意地になっていた部分も無いといったら、それは嘘になる。 ただ何故かその度に、善い女性にめぐり会える予感がしなかったのだ。 根拠の無い予感――ただそれだけだった。 しかし…先刻いつも通り見せられた見合い相手の、見合い用にしては小さな肖像画の前で… ボロミアは言い知れぬ甘さを感じ取っていた。 肖像画など大抵なんの役にも立たないというのが通例だが、 控えめで品の良い金縁の額に囲まれて微笑む女性は――酷く―…心を、締め付けた。 執務室に戻っても、まだどこか温い気持ちに戸惑いを覚える。 恋を知らぬ年でもない――だからこそ、この少し浮き足立った感覚が、厭わしかった。
ボロミアは少し居た堪れない気持ちになった。
「しかし先刻戻ってきてから、兄上は溜息しか吐いていませんよ」 「そう……なのか?」 「ええ」
それを受け取ると一口煽り、ボロミアはぼんやりと呟いた。 気が付けば、外には深々と雨が降り注いでいた。
しかも絵画――ああいう媒体が嘘を吐くのは…まあ何時もの事だがな。 それでも…―あそこに描かれていたのは、美しい女性だった―…」 「一目惚れをあなどらない事ですね」 「しかしだな…見目の美しさで惚れられても、相手は喜ばないだろう」 「喜ぶも何も…それを確かめるのが見合いなのでは?」
と言っても、これは宴の会そのものであるから、 ボロミアが肖像画の淑女をエスコートするという砕けた形式で行われる事となった。 日没の宴に向け、城は朝から騒がしかった。 陽が頭上に上る頃には、おそらく見合い相手の一行が到着するだろう、と告げられている。 (あまり期待しすぎるな……あれはただの絵――絵なんだ) そんな事ばかり考えて落ち着かないでいるボロミアを、ファラミアが呼んだ。
エレスサールとアルウェンが待っていた。
「気にする事は無いボロミア。私が呼び立てた客人だ。出迎えくらいさせてくれ」
見つめた先に見えたのは――軽快な足取りで石畳を蹴る4頭の白馬の姿であった。 颯爽と駆けつけた4人の客人は、門を潜ると無駄の無い仕草で馬を宥めた。 2人は屈強な男ども、もう1人は背の高い女性――侍女だろうか――、 そして――小柄な人物は品の良いローブを頭からすっぽり被っていて面相が見えない。 馬から降り立った背の高い女性が、馬上のローブの人物に手を差し伸べようと思い至るより先に、 彼は――ボロミアは――、その逞しい手を差し伸べていた。
(馬鹿か、俺は) しかしボロミアに恥をかかせる暇も与えず、至って自然に、ローブの人物はその手を取った。 ローブから覗く白より白い華奢な手に、ボロミアは思わず息を呑んだ。 体重を掛けられている事にも気付かない程、その人物は軽やかに舞い降りた。
(母上の声に少し、似ている) ローブを取り去ると、淡い蜂蜜色の巻き毛をたたえた少女――と、見紛う程に愛らしい、 あの肖像画の女性がボロミアの深い瞳を見上げて微笑んでいた。 ボロミアが目を離せずに居ると、エレスサールが楽しそうに客人に声を掛けた。
「エレスサール王、お久しぶりで御座います……あの頃よりお変わりないようで」
エレスサールはいやいや、この様に老け込んでしまったと言って笑った。
「…―挨拶が遅れました。先刻のご無礼をお許し下さい、姫」
ぱっと浮かんだエルフの顔――内心でそんな似つかわしくない悪態をひとりごちつつ、 ボロミアはそっと頭を垂れて、麗しいその女性に非礼を詫びた。 もやはり若干緊張しているのか、先程ボロミアに触れた部分を手に握りこむと、 少し恥じらいながら、慎ましやかにお辞儀を陳べた。
私の方こそ、お手を煩わせた非礼を言わせて下さい」
兄と姫の遣り取りを見たファラミアは、思わず目を細めた。 傍目にはそうと解らなくても、きっと内心まごついているであろう兄を思って。 あるいは、弟の欲目を勘定に入れずとも、国の誰よりも逞しく優しいボロミアという人物に、 今確実に惹かれている姫を思って。 ちらりとエレスサールを見ると、彼もまた同じ事を思っていたようだった。 アルウェンがやんわりと微笑むと、の持て成しを買って出た。 「お話の続きは、今宵の宴の席までお預けのようです」 は丁寧に挨拶を陳べると、去り際にちらりとボロミアを振り返り、 目が合うと恥かしそうに微笑んで、アルウェンの後に続いて、 侍女―ジリスというらしい―と共に城内へと消えていった。
兄弟揃って仲良く宴の準備をする予定は無かったのだが、 ボロミアは居たたまれずに思わずファラミアを呼んでしまったのだった。
「?…何か?」 「……何でも無い」
ただ思いの他彼女は美しくて、思いの他可憐で、思いの他―…
「な、何だ」
「…お前って奴はまたそういう事を恥じらいもせず…」 「事実を申し上げただけですが?」
ボロミアは苦笑した。
私としても嬉しいものがあるのですよ。どうか今宵を楽しんでください」
王が即位して以降、宴といっても豪華絢爛な物はそうそう開かれる事は無い。 今宵の宴も凝り固まった物では無く、着衣こそ正装ではあるのだが、 城下の者にも恩恵が回るような心地の良い宴なのだった。 門前の広場にテントを張り、色とりどりの蝋を灯し、自慢の演奏隊が音楽を奏でる。 綺麗な衣装を着たご婦人方が扇子を片手に談笑に興じ、男達は酒を嗜み、 城下の子供達はそれを遠巻きに眺め、愉快そうにはしゃいでいる。 場は既に暖まっていた。 が現れるのを今か今かと待ち望んでそわそわしている自分に気付き、自嘲する。
城の扉の方を見やれば――やはり。 麗しい姫君――――が、立っていた。 色素の薄いその存在――結い纏められた金糸、髪飾りは白い花、 何層も重ねられたレースのドレス――。 目が、剥がせなかった。 咄嗟に動けずにいると、ファラミアにさり気無く背中を押された。 ボロミアは我を取り戻し、吸い寄せられる様にの目前へと登場した。
こういう機会だから普段よりも何倍も身形に気を使い、 滅多に付けない香水を小指の先程ではあるが袖に染み込ませたりもした。 ボロミアは単純にその甲斐があったのだと思った。 しかし遠巻きにそれを耳にしていたファラミアとジリスは、その愛すべき鈍感さに苦笑した。
もちろん華奢で小奇麗な顔という意味では無い。 そうではなくて、その逞しい肉体のしなやかさも、深い眼差しも、 甘く低い声も――美しい男、そのものだった。
隣に並ぶと、の折れそうな首をやんわりと這う和毛が匂い立つようで、 なんとも言えぬ幸福感がボロミアを支配した。 勿論――今まで女性を知らずに生きてきたわけではない。 差異はあれど、皆しとやかな女だった。 多少大胆に振舞って、唇を奪いたいと思えばそうなるように仕向けたりもしてきた。 照れながら髪に指を差し入れる事も出来た。 だが……この感じた事も無い歯痒く苦しい感情の正体は……? 触れることさえ躊躇われる。 愛しさが込み上げ、この小さな存在を、純粋に――、 …守ってやりたいとすら思ってしまっている。
ボロミアの心中にはを愛おしむ気持ちが次々に溢れ出していた。 笑うときに口元に添える手も、小さな爪も、名前を呼んでくれる声も――全てが胸を締め付ける。 青い子供でも無いから、ボロミアは至って紳士らしく振舞った。 1分1秒でも彼女が楽しめるように努めた。 宝石が如く見目麗しい異国の姫に、宴の出席者達も大層盛り上がっていった。 二人はもう何度踊ったか解らなかったが、踊っては互いの話に興じ、また踊る… 見守る者達ですら、この二人が今日初めて顔を合わせた仲だという事が信じられ無い程、 睦まじいものがあった。 宴も最高潮になる頃、二人は宴会の輪を抜け出し、芝生の生える静かな庭に腰を下ろしていた。
「いいえ、私とても楽しくって…驚かれたでしょう?こんなにお喋りな娘だったのかと」
すると何処からとも無くはしゃいだ城下の子供たちが、ボロミアとの元へと駆けて来た。
この宴が相当に楽しかったのだろう。 皆裸足で泥だらけになって楽しげに飛び跳ねている。 子供好きのボロミアが頬を緩め、いつものように「仕方が無いな」と腰を上げるより先に、 あれだけ高貴な美しさを湛えていたが、靴を脱ぎ捨て子供達の輪の中に嬉しそうに入っていったのだ。 美しい小さな手が、それよりも遥かに小さな手を握り締め、 子供達の感性から生まれ出る、あの独創的な足踏みに合わせて、 ぴょんぴょん跳ねて足を踏み鳴らして―…。 素足に少し泥が付く――しかし彼女はそれを微塵も気にする様子を見せず、 本当に楽しそうに、幸せそうに、声を出して笑っていた。
「ひめさま、すっごくきれい」
は拒まずむしろ望むように子供達の相手をしている。 ボロミアは――言葉も無かった。 本当の意味での美しさが目前で鮮やかに繰り広げられていた。 子供と一緒になって母親の様に笑うを見ていると、 油断ひとつで涙が滲む思いがした。 そしてそれ以上に、そんなが心底愛しくて仕方がなくなっていた。
「ああ―…今行くよ」
お開きになった宴の席の横――芝生の上のベンチに腰掛け、先刻よりも更に打ち解け、 安心しきったようにボロミアに寄り添う――。 月明かりだけがやけに眩しくて、城下の蝋燭も眠り、もうほとんど灯っていなかった。 ボロミアは自分の腕に預けられたの頭にそっと自分の頬を摺り寄せた。
そして出来る限り、誠実さを込めて、甘く、力強く、告げた。
月夜の、芝生の上で、お互いがお互いを瞳に絡め取らんとするように、 相手の瞳の中には自分の姿しか映ってはいなかった。 瞬間、は頬を染め、至極幸福そうに微笑んだ。
は甘えるように、味わうように――うっとりと眼を閉じて、その掌に頬を押し当てた。
朱色の柔らかな唇に、口吻けを落とした。 最後は彼の逞しい腕に絡め捕らわれ、 お互いの心臓の音が何よりも近くに感じられる場所に拘束されて、 そっと耳元で囁かれた。
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ケムイさまよりリクエスト頂きましたボロミア夢。
…が、まずは本当にお詫びを申し上げなくては…。
これは2周年企画で頂いたリクエストなのです、2周年企画です(2回)
全く私の至らなさで2周年は愚か、まさかの3周年目も過ぎてしまいました…!
1年以上お待たせしてしまったので、もう賞味期限キレキレの話題だと思いますが、
それでもはやりリクエストを頂けた事が嬉しかったので…
今更感たっぷりでおおくり致しました…そんなボロミア夢ですハイ…(猛省)
さて、頂いたリクエスト内容は…
「ボロミア死ななかったIF設定で平和になった後に見合いだよ!話」
でした★
ええと…長い…ですね(スパーン)
すみません、いつも長くて読みにくいばっかりです(切腹)
ボロミアとファラミアのからみが書いていてとても幸せなんです…仲良し兄弟。
そしてじじ化が進むエレスサール王…すみません(^ρ^)
こんな軟弱ボロミア(小山●也ボイス)ですが…
すいかの種粒くらいでも楽しんで頂ければ幸いです…!
本当に遅くなってごめんなさい…!
ありがとうございました!本当に…!!
20090731 呱々音