嗚呼、しくじってしまった。

新宿駅に降り立ったとほぼ同じくして、空は突然のどしゃ雨に濡れていた。

目黒の自宅を出た時はあんなに晴れ渡っていたというのに…。

私は微細ながらに少し顔を顰めると駅の軒先から湿り気を帯びた空を見つめた。

大粒の雨粒は地上を打ちまるで大豆を散らす様な音を鳴らして、鈍色の雲は雷を轟かせている。

これだから夏の夕立は―いけない。

人の多い時間帯でなかった事は幸いだが、駅は雨宿りする者で溢れている。

苛立たし気に空を睨む者、諦めて読書をする者、まちまちだった。

突然、強烈な稲光の閃光が、建物に、人に、景色に、コントラストを付ける。

同時に爆音を叫びながら雷が落ちる。

どうせ一時的な物なのだろうが生憎傘は持ってこなかったから、移動のしようも無い。

とは言え傘とて無意味と言わんばかりの見事な雷雨である。

雨のお陰で暑さは大分マシなはずだったが、こうして雨宿りの人々でごった返す場所に立っていると、

密度的な圧迫感のせいでじんわりと汗が滲むような気さえした。

私は短く溜息を吐くと、もう幾許か人の少ない場所へ移動しようと身を翻した―その時である。

振り返った肩越しに物凄い衝撃で何かがぶつかった。

―ぎゃあとかぐうとか―…そんな音が聞こえた気がしたが…きっと空耳だろう―

反射的に目を瞑る。 追突の衝撃で私は見事に弾かれたから―きっとこのまま尻餅を着く…。

肩が冷たいのは、恐らく何かがぶつかった部分が酷く濡れているからだろう。

私はとりとめもなく、洗いざらしで水気まみれの犬を思い出した。

目を瞑り身体を強張らせ、良く理解も出来ぬうちに尻餅への衝撃へと身構えた。

しかし…何故かその衝撃は一向に達成される事はなかった。

恐る恐る目を開けると―…今更、腕をしっかり掴まれている感触が知れる。

「ッ!大丈夫か!」

頭の上の方から明朗な声がした。

状況を上手く飲み込めずにただ阿呆の様に視線を這わせ、腕を支える人物を確認すると―…、

私の頭上には、非常識な程高貴で美しい顔があった。

ただしその人物は服を着たまま頭から沐浴したと言わんばかりの見事な濡れっぷりである。

この雨に遭ってしまったのだろう。

西洋人形のそれ様に作り物めいた存在ではあるのだが、支えられる腕からは確かに体温が伝わる。

それが余計に非現実的に思えるのに、事実この超絶美男は驚くほど力強く私を支えていた。

「ああくそうやっぱり見えない」

足元が安定した私の腕を優しく離すと、彼はそう零しながら

両手を拳に握り、眠たい子供みたいに瞼をぐりぐりした。

彼の髪や衣服からぼたぼたと滴る水滴を見て、私は反射的にハンドバッグからハンケチーフを取り出した。

「あの…こんな心許ない物で宜しければ、御顔だけでも拭って下さいませ」

自分よりも大分背の高い殿方に向けて、おずおずとハンケチを差し出した。

彼の鳶色の双眼はどこか不明瞭な霞の様だったが、綺麗な面相は予想以上に美しく微笑んだ。

「おや、ありがとう!そうねえもしかしたら目に雨が入っただけかもしれないしねえ」

彼はぶつぶつとそんな事を言いながらハンケチを広げびたんと顔を埋めた。

何とも説明出来ぬ不思議なその愛らしさに、私はこっそりと口元を手で覆った。

「ああそうだ貴女、お怪我はありませんでしたか?」

布で顔を抑えている分少しもご付きながらも彼は聞く。

「え、あ…お陰様で怪我は無いです。私の方こそ注意不足でした…申し訳ありません」

「不足というけど、ではどれくらい注意があれば不足じゃなくなるのだ。

 注意してたって起こるものは起こる!

 僕はこんなにも注意をしていたのにそれでもこうして目が見えない!

 やっと駅に辿り着けたと思ったら貴女を轢いてしまうし、全く不便で仕方が無い」

「目を―患ってらっしゃるのですか?」

「そうみたい」

先程の言い分がどういう理屈かはもう問題では無くて一体どうしたのか―目が見えぬらしい。

どうやら雨粒でも目に入り込んだのかとも思っていたらしいのだが、

万が一にしたってそんな理由で著しく視力が衰退する訳もないから、

彼はしばらく考えを巡らせた後「いなずまァ」と呟いた。

「稲妻―……ああきっと先程の大きな雷ですわ、あれのせいで…?」

「多分ね」

彼は長すぎる腕を組むと、困ったなあ面倒だなあと顔を歪めた。

私の今日の用事などこの雷雨のせいですっかり乱されたも同然であったし、

兎も角これが好奇心なのかなんかのか皆目検討も付かないが、

さて置いても目の前には困窮する殿方が居る訳で―。

「あの……私でお役に立てる事はありますか?」

「あるぞ!おおありだ!そうと決まれば中野へ行こう」

「中野ですね?」

「ナカノナカノ」

彼は嬉しそうに笑うとそっちの方が近いからねえと云った。

「では、ええと…………」

「榎木津礼二郎」

「榎木津…さん―…私はと申します」

「おお!ではちゃん。暫しの間僕の目となってくれたまえ!」

えへんという言葉か似合いそうなほど横柄なそれであるのにも関わらず、

すっかり楽しくなってしまった私はくすくすと笑っていた。

「仰せの通りに。榎木津様」





 * * *





国鉄に乗り中野に降り立った時には、夢か幻と言う程ものの見事に雨は止んでいた。

私の右手は榎木津に握られている。

狼狽する私に彼は一言

「だって逸れちゃうじゃあないか」

と云った。

その端正な微笑みに私の戸惑いは敢え無く受け流されたのだった。

そもそも目に自由が利かないというのは随分な事だから

私は背の高い立派な男性の手を母親の様に引きながら、こうして中野に辿り着いたのだった。

「榎木津さん、中野に着きましたよ」

榎木津を見ると、半目になって虚ろな場所を見つめていた。

「ん?ああ、雨は止んだのか。さあちゃん!僕の云う通りに歩くのだ!」

それから「青いの」とか「煉瓦」とか注意しないと解らない様な目印ばかりを示唆され、

最初は榎木津の言う目的地に辿り着けるのかも怪しかった。

だが彼は時たまあの半目を作っては、うん合ってると呟き、私は事の他順調に順路を追っていたようだった。

煙草屋の角を曲がり歩いていくうちに不思議な傾斜をした坂道の元で止まるように云われた。

坂の両脇には油土の壁が終わり無く続いている。

「これを…登るのですか?」

「そうだ!おおもうすぐ着くぞ!コレを登ればすぐだ!」

云われるままに坂に差し掛かり、お世辞にも歩きやすいとは云えないそれを

酷くふらふらしながら何とか登った。

目の見えない榎木津を危惧し途中何度も後ろ手を振り返ったが、

彼は案外慣れた足取りで、逆に私の足元が危うくなった時には腕を支えられたりした。

坂道ではそれこそどちらが介抱されていたのか解らない有様だった。

鬱々と登り詰めた場所に竹薮が見えた。

「そうそう、そこだ。そこの本」

「本?」

思わず辺りを見渡すが、見渡す程物がある場所でも無い。

「……京極堂―、ここですか。榎木津さん」

「おお着いた!」

無事に目的地まで到着出来た事がそんなにも嬉しいのか、彼は握った手をそのままに、

今度は自らが私を引っ張りながら―見えないのにも関わらず―ずかずかと門を潜った。

何にせよ相当通いなれているのは確かだろう。

榎木津は遠慮などという言葉とは至極無縁そうなその態度のまま

『中禅寺』と書かれた家の玄関を勢い良くガラガラと開けた。

「ほおん!」

このひと吼えのせいで、心地よい日常の静寂が乱されたのは部外者である私でも解った。

間も無く奥の方から足音が聞こえてきた。

「あんたはいちいち騒々しい」

「目が見えないのだ!」

榎木津に本呼ばわりされた家の主は、世界の破滅が明日だと先刻されたような仏頂面で立っている。

今時珍しい着流し姿で、痩身だが姿勢は良く、榎木津にも私にも特に動じないらしかった。

仏頂面の主人は目敏かった。

「―まずはその服を脱ぐ事だ。本を濡らされては堪ったものじゃない」

榎木津はなんの頓着も無く来ていた襯衣のボタンを外すと、脱ぎ終わらぬうちにさっさと家の中に上がり、

お構いなしにぽいぽいと脱ぎ捨てながら奥の部屋へと消えていった。

彼の歩いた後には襯衣やら靴下やらが点々と捨てられていた。

いつの間にか手は離され、私は自分の右手と榎木津の見えなくなった場所とを交互に見た。

家の主人も榎木津の消えた部屋から目線を外さずに、殊更顔を顰めながら米神を押さえ溜息を吐いた。

私は帰るべきなのか残るべきなのかも解らなかった。

「初めまして。僕は中禅寺と云います。ご覧の通りあの破天荒者は寝に行ったようです」

「私はと―…え…あの―…、寝に?」

「そうですさん。寝に」

とは云え矢張りそれは―眠った方が、というか眠るしか―…無いのだろう。

「生憎妻は留守中で大した持て成しも出来ませんが、宜しければお上がり下さい」

中禅寺に良く通る声でそう諭されて私はようやく微かに笑う事が出来た。







 * * *





少し薄めだが熱い茶が出され、雨粒で冷えた喉にはとても有り難かった。

「あれには一体どこで捕まったのですか」

机の下に体を伸ばし座布団に頭を預けて全力で眠りを貪る榎木津を見やる。

浴衣を着ていた。

「新宿駅でぶつかったのです。

 丁度どしゃ雨に降られまして―私は雨宿りをしていたのですが、

 榎木津さんはずぶ濡れでした。途中で降られたのだと、そんな風に仰ってましたが」

そこで区切るようにもう一度榎木津の寝顔を見た。

柔らかな髪が白肌に掛かり、すやすやという音が似合う位よく眠っている。

「…どうやら大きな雷で目を患ってしまったようでした」

「ああ―先刻のあの稲光ですね」

「ええ恐らくそうなのだと思います…お困りの様子だったので、

 差し出がましくもこうして中野まで付いて来てしまいました」

中禅寺はとんでもないと云った。

さんには御用があったのでしょう。この無法者なんぞより、そちらの方は良かったのですか」

私は困ったように笑った。

「どうしようもない私用ばかりです。どうかお気になさらないで下さいませ」

お茶を一口含む。

「榎木津さんは―、大丈夫なのでしょうか…」

「軽視する訳じゃあないですが、おそらく大丈夫でしょう。寝て起きれば少しは忘れる。

 恐らくは瞬間的に身体が思い出した衝撃なのでしょう。この男は元々視力が弱い」

何か―あったらしかった。

「あの―…とても出すぎた質問なのですが…、榎木津さんはどうしてこちらに―、」

「榎木津の家は神保町です。新宿からなら此処が近いと判断したのでしょう」

いくらコレでも流石に見えないのはしんどかったのだろうなと付け加えた。

―そっちの方が近いからねえ―

私は先刻の榎木津の呟きを思い出した。

「中禅寺さんは本を売られているのですか」

「ええ。古書屋の親爺です」

通りで―私は反射的に部屋を浸食している様々な本を見た。

「あの、どうぞお仕事にお戻り下さい。

 榎木津さんもゆっくり休みたいと思いますから…私はこのお茶を頂いたらお暇致します」

「差し出がましいようですが―もしこの後さんにご予定が無いのであれば、

 適当に寛いで行って下さい。どうせソレはすぐには起きません」

「でも―…ご迷惑では」

「さあ雨も上がりましたからね。札でも下げてこようかな」

そう言いながら中禅寺は私にふっと笑いかけ、母屋と繋がっている蔵のような建物へと消えていった。







 * * *





三時間近く経ったのだと思う。

色素の薄い御人形の様な榎木津の顔を凝乎と見つめたり、積み上げられた本の名を目で追ったり、

たまに横切る猫と戯れたり―…否、殆ど榎木津の寝顔をぼうっと見つめていたような気がする。

何は無くとも美しい。只管、美しい。

あまり上手とは云えない浴衣の着方が、榎木津の作り物感を実物だと云わしめているようだ。

初めあまり懐かなかった猫は、榎木津が起きる頃には私に纏わりつくまでになっていた。

「ああ良く寝た」

寝ぼけ眼を擦りながら、榎木津は見事な腹筋で起き上がった。

「榎木津さん、目は―…」

「ん?おお見える見える!ちゃんの可愛い顔が拝めて僕は嬉しいぞ!」

再び騒がしくなったのを聞き付けたのか、中禅寺が母屋へと戻ってきた。

「回復したようだな。おや―…あんたさんに何を言ったんだ。真っ赤じゃないか」

「僕はちゃんの可愛い顔が早く見たくて我慢ならなかったのだ!」

中禅寺は持っていた本を机の上に置いて少し苦笑した。

「さて隣に出前を頼みますが」

「おうどん!ちゃんも僕と同じもので良い」

榎木津は間髪入れず吼えた。

「私もあやかってしまって宜しいのですか。その―御台所を貸して頂ければ何か作りますが…」

「この家には何もないよ。どうせ本馬鹿は頼むのだからちゃんが気にする事など何ひとつ無い!」

中禅寺もそういう事ですと云った。

ちゃんは客なのだ!遠慮は禁物。ほら、おうどん!」

「はい。おうどん」

可笑しくって頬が緩んでしまう。

「ん?おお京極、お前もうどんなのか!」

「観えたか」

「…見えた…?」

榎木津は変な声を出して妙な動きをした。

中禅寺が事も無げに言う。

「榎木津には他人の記憶が観えるのです。視覚的な記憶だけ―らしいですが」

「観える―…のですか」

―ああ、それは…―多分…難儀な―…物―…である…。

私には解らないし…中禅寺にとて解らないのだ。

所詮は総て本人しか引き受けられない事象―、なのだろう―…。

「それは………ご苦労様です」

榎木津は溌剌と満足気に笑った。

「僕は神だからこれは至極当たり前なのだ!ちゃんは賢い娘だねえ」

中禅寺は小さく口の端を上げると、行って来るよと云って蕎麦屋にうどんを注文しにいった。





 * * *





うどんを啜り、めちゃくちゃな榎木津の何処か筋の通る話を聞き、

時には私も質問をされ、口を沢山動かしたところで丁度良い時間になった。

薄暗い外を見やれば、どうやらまた少し雨が降っているらしい。

これなら二人入れるだろうと中禅寺が大きな傘を貸してくれた。

どうやら榎木津は神保町の家に使いの者が居るらしいから、

駅まで迎えに遣せば僕は濡れない、と云う。

うどんと傘と―、中禅寺に何度も丁寧に頭を下げると

「またいらして下さい」

と兇悪な面相で微笑み、温かい言葉を掛けてくれた。

善く眠った大きな子供―榎木津―は、夜の眩暈坂は危ないよと再び私の手を握り締めた。

酷く―温かかった―。

「何だか…不思議ですわ。今日初めてお会いした気がしません」

榎木津に引かれて、坂を降る。

しんしんぱらぱらと小雨の音が傘を小突く。

彼は勢い良く振り返ると暗闇でも綺麗なその瞳を煌々を輝かせた。

「おお!それは素晴らしい!僕も同じ事を思っていたのだ。そして僕はこれを運命と呼ぶ!」

「運…命……?」

「うん!めい!だ!」

「っからかわないで下さいませ」

「からかってないよ」

傘が足元に転がった。

榎木津は坂に任せて私の腕をぐいと引いた。

大きく揺らぎ前につんのめった私は、そのまま………彼の胸に―抱き締められていた。

―優しく優しく私を―捕まえる。

沸騰する自分の心音が耳をわんわん云わせた。

それでも榎木津の声だけはとても鮮明に耳に、心に、身体に、入る。

は眠っている僕をずーっと見ていたじゃあないか。僕はの優しい心に映るのが大好きだ。気持ちが良い」

「………………嗚呼そんな、観て…しまったのですか」

観えなくても解る!と榎木津は云った。

そしてうふふふと変な声を出すと

「それに蜂蜜も好きだ」

と笑った。

―あ…―

「確かに…うちの実家は―……養蜂業…ですが………」

「今のは観た」

彼は悪戯っぽく目を細めて今度はふふんと鼻を鳴らした。

、ずっと僕の傍に居ろ」

とても精悍な声と顔を―していた。

「………………………では―…私も覚悟を…決めなくてはいけませんね」

私は俯き、赤面ながらに深く息を吐いた。

榎木津はお預けを喰らった犬の如く、私の二の句を待っている。

「私を―……榎―…礼…二郎さんのお傍に―……置いて、下さい」

唯一無二の神は神々しくも顔をくしゃりとさせると、思いに任せて思い切り私を抱き締めて

嬉しそうに幸せそうに口の左右に皺が出来るほど笑顔を作った。

「離さない!離してやるもんかァ」





嗚呼、雨が―――止んだ。


















★::::★::::★::::★::::★

ハナダさまよりリクエスト頂きました!

「雨の日に街中で(もしくは駅で)すれ違い出会いそこから始まるほろ甘い恋」

という事だったのです……が…(沈黙)

何を思ったか「すれ違い」は「衝突」

「ほろ甘い恋」などはすっ飛ばされ早速成就ですよ。

どうなんでしょうか。切腹ですか。そうですか。

ハナダやあああん愛しいリクエストにも関わらず、

榎木津に振り回された感のいなめない物で申し訳ないですあああ(涙)

でも、多分、今一番、榎木津熱が沸騰している時だったので、

もりもりわくわくひゅーひゅー言いながら書かせていただきました!

身内的なネタも入れました。ごめんなさい。

勝手に実家を捏造しましt(ボッコボコ)

あと名前変換しないで読むとお名前が「花田いつ子」となります(笑顔)

やあ〜楽しかったです〜…!!(ほくほく)

こんなにお待たせしてしまって申し訳ありませんでした!!(汗)

あと秋彦でしゃばっててごめん(素)

ハナダやんへ★心より愛をいーっぱい込めて。

20080826 狐々音