ロンドンに秋が来た。冷たい空気に満たされてゆく。

窓硝子ごしに見つめるかつて《霧の街》と呼ばれたこの街は、

乾燥した風と温もる太陽の光で、今まさに奇麗に磨き上げられていた。

雨も多いが、だからこそどこまでも清々しく広がる秋の青空が愛しかった。

はその細い手首に巻き付けた華奢な細工の時計を見やると、

自分のすべき仕事に再び舞い戻った。











彼女の仕事は《支えること》――言葉通り、そのものだった。

ギャレス・マロリーが新委員長として迎えられることとなった折りも、

彼は上等な革張りのスツールは置いていっても良いが、

彼女だけは引き続き部下として連れてゆくと公言していた。

“慎ましく、聡明で、賢く、そして大胆にも振る舞える高貴な女性”

のように優秀な人材は、他のどこを探しても存在しないことを

マロリーはよく知っていた。

もうかれこれ10年の付き合いになる。

マロリーが最初の結婚にピリオドを打つときも、

多くを語らずただ黙って支えてくれたのはと、

彼女の探してきた同じく礼儀を弁えた弁護士だけだった。

離婚の話は大いに揉めた。

彼にしてみればとてつもないロマンスの果てに、夫婦となったつもりだった。

妻は若く、そして美しかった。

何がどうやって、そしてどこから歯車が狂ったのかも、今となってはわからないが、

結婚生活は5年と保たなかった。

それでも彼は、子供のためにも妻との関係修復を望んでいた。

一人息子の親権は共同で持つことを許されたが、当時の彼はもうボロボロで、

いつ倒れてもおかしくはなかった。

仕事の方でも多くを求められた。

軍人あがりの彼が、能力を買われ頭角を現し始めた矢先の離婚調停。

は黙って上司である彼を支え続けた。

マロリーがそのありがたさに気付いたのは、幾重にも重なった雲泥が晴れてからのことだった。

彼はそれを恥じ、そしてその恥から学ぶ謙虚さと、活かす能力を持っていた。

彼女はいつだってマロリーのために無駄のないスケジュールを組み、

つまらない争いは事前に払いのけ、子供との憩いの時間を与え、

必要なときは完璧に粧し込んで、彼の隣にも立った。

マロリーは彼女のことを大切に思っていた。

とてそれは同じで、彼を心から慕っていた。

身体の関係はなかった。

キスもない。

手を繋いだこともない。

――マロリーにしてみれば、もうそういう歳ではないのかもしれない。

だが互いに相手が愛しい存在であることは、疑いようがなかった。











イヴ・マネーペニーから聞いたMの好きなコニャックの銘柄を手帳にメモしながら、

分厚い扉をノックする。

重厚な廊下にこだまする乾いた音は、まだ耳慣れない。

返事が返ってきたので入室すれば、まだまだ荷解きの済んでいないオフィスがとても初々しい。


「ギャレス。彼女の愛飲がわかったので、私は先にそれを買いにいくわ。

 あなたは明日からの“仕事”に備えて、早くこの部屋を作らなければいけないわ」


マロリーは上品な金色のアームバンドを外しながら、顔を上げる。

少し乱れた髪が額にかかって、はそんな様を好ましく思ってそっと目を細めた。


「やはりスコッチかな?」

「いいえコニャックよ《クルボアジェ》」


彼はいたずらっぽく首を振った。


「片付けはうんざりだ。ここまでにして、そろそろ外の空気を吸いたいよ。

 あんな空気でも今日みたいな日は美味しく感じるだろう」

「…車を出してくださるなら」

「もちろんだともミズ・











イヴによればMは自分の判断は正しかったと確信していても、それによる部下の死と、

度重なる審問会の鬱屈で、そのイライラは爆発寸前の煮え立った湯のようだと言う。

そのMからイヴを一時的に引き離したのもマロリーの指示によるものだった。

恨まれ役は常に自分であるべきだというのが彼の一貫した主義なのだ。

あのクールな仮面を纏ったMI6の女王。

その仮面の下に彼女が必死に隠してきた《老い》という一番弱いところを突くのだからこそ、

マロリーは何十年もこの国に人生と魂を捧げてきたMという一人の女性に、

出来る限りの敬意を示したかった。

その手始めこそが、長年彼女の寡黙な友であったはずの愛酒《クルボアジェ》なのだ。











「言いにくいことを言うのも私の仕事だ」


ほとんど趣味と言っていい彼の愛車は、

運転手を付けるのをあまり好ましく思わない彼の苦肉の策である。

手入れの行き届いたそこそこの高級車をひと撫でして、

自分で運転したいんだと言えば、その後はもう誰も咎めたりはしないだろう。

せめて仕事の行き帰りくらい、解放される時間が必要だった。

だからは他の人間とは違って、彼のそんな見せかけのわがままを咎めたりはしなかった。


「ええ――本当に。あなたは誤解されやすいから」


たった二人しか乗れないこの車は、彼の所有するいくつかの愛車の中でも、

ひと際マロリーのお気に入りだった。

低くて豊かなエンジン音が彼の指揮するままに、演奏を続ける。

日が傾きだした。

秋らしい、少し物悲しくさえある、澄み渡ったロンドンの夕暮れだ。

会話らしい会話はとうに喪われていた。必要なかったからだ。

だがこの世界中どこを探したって、彼の隣以上に安堵できる場所は見つからないことを

は知っていた。

この感情を愛と呼んでいいのなら、どうかその《許し》が欲しかった。

自分から望むことなど、出来るはずもないのだから。

デパートで素早く買い物を済ませる頃には、もう空は暗くなっていた。

とても短いデートだった。


「風邪を引くから早く入りなさい」


マロリーに促されて車内に乗り込む。確かにそうだ。

秋に夢中になっていたが、冬はもう目の前まで来ている。

再びエンジンが唸りをあげ、元来た道とは少し違う道順で

――マロリーのお気に入りのルートだ――新しいオフィスまで引き返す。


「なあ


――チープな関係にはなりたくない。


「失礼を承知で教えてほしい…君はいくつになった」

「初めて会った時の小娘に、10を足してください」


信号に引っかかりやすい時間帯だ。

目の前を横切る人の群れの中に、3人の小さな子供を連れた若い母親を見つけて無意識に目で追う。


「…

「ギャレス、駄目です。言ってはいけない」


――ああ…この人は本気なんだ。


「私たちはそろそろ籍を入れるべきだ」

「……必要なら」


のその口調が気に入らなくて、マロリーはハンドルを切って路肩に車を急停止させた。

彼女の顔を、目を、しっかり見据えて、とても真剣な口調で続ける。


「必要かって?ああ必要だ。私たちはお互いが何よりも必要だ。

 君が私に捧げた人生を決して無駄にはさせない。

 私の残りの人生をすべての幸せのために捧げると決めたんだ。

 理性的でないと罵ってくれても構わない。

 だが私たちはよく耐えたと思わないか?10年――10年だ!

 これは呪いだよ。君の声を奪う呪いだ。

 そして私はよく知っているよ。この呪いを解けるのは私だけだ。

 なぜなら私は君をこの世で一番深く愛しているんだから」


の中に愛が有ったとして、彼女はそれを今の今まで《無償の愛》だと思おうと努めてきた。

だがそんなものは存在しない。

もっと俗っぽくてそしてとても濃い感情だ。

――愛し、愛されたかったのだから。


「…それを同情と呼ぶのは愚かなことかしら」

「私が同じことを言われたらそう思うだろうな」

「でも違うのね?」

「…ほら…こっちへおいで。泣き虫さん」


小さな車内で身体をくっつけあって、彼の胸に顔を埋める。

守るように力強く抱きしめられて、

彼女はようやくそこでこれが夢やまやかしでは無いことを知った。


「10年も口に栓をしてきたんだ」

「お互いにね」


マロリーはのきれいな形をした顎を優しくすくいとると、やわらかな唇を情熱的に貪った。

全身が沸騰して、どちらもそのまま気を失いそうだった。

例えようも無い幸福感が心に流れ込む。

――生きている。

曖昧模糊として輪郭を持っていなかった。

彼のキスで、彼女のキスで、二人はハッキリとした躯の輪郭を、睫毛を、爪先を手に入れた。

確信した。蘇った。躍動する呼吸を取り戻したのだ。

二人は今、初めて生きていた。






掌で乱れた髪を撫で付け、彼は再びアクセルを踏む。

ステアリングを片手で握りながら、余った左手が彼女の右手をそっと握りしめる。

目線はどちらも合わせない。

の満月のような瞳が、街の明かりを集めて星のようにチラチラと輝いていた。

もう怖くはなかった。




















































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マロリーっていう人は、ものすごく上司だなあ…と思うのです。

苦労人であろう彼はそれを表に出して同情を引く訳でもなく、

ただただ重責に耐えて真っ当にパイプとなって人と人を結びつける。

「恨まれ役は自分であるべきだ」そういう考えを持っていられる人は、

とてつもない犠牲と強さを持っています。時には耐えられない夜もあることでしょう。

それを他人が理解するのは無理な話なんですよねきっと。

だからこのお話に出てくる彼の奥さまは、彼に耐えられなかった。

心を開いてくれないとか、そんなふうに小さな亀裂をたくさん抱えて

結婚生活にも旦那さんにも耐えられなくなってしまったのかなあって。

公私ともに強すぎず弱すぎず支えて弱みも受け入れてくれたさんに

あの必殺仕事人マロリーも例えようも無い愛の芽生えを感じたことでしょう。

なんと打ち明けていいかも考えさせてしまう感じで。親父キラーは最高ですね。

なんのこっちゃ。お粗末さまでした。

20131118 呱々音