マークは英国バッキンガムシャー州エイルズベリーの自宅で、

シンバとシャドーと名付けた愛犬と共に暮らしている。

レースでくたくたに疲れきった彼の心身を、無上の喜びで癒すことこそ、

ホームで待つこの《ふたり》の大切な役割だ。

ドライバーに専属で付くアシスタントやトレーナーなどのほとんどは、

意識的にドライバーの側に宅を構える傾向にある。

その方が何があってもすぐ動けるし、話が早い。

トレーナーのリッチも、パーソナルアシスタントであるもその例に漏れない。

行き来が楽な分、単身者のは気が付けばウェバーの自宅の鍵をも預けられ、

彼の日課である早朝のジョギングに参加したり、愛犬の散歩に付き合うこともしばしばだ。






マークはこの日、いくつかの取材を終えてから

ミルトンキーンズにあるチーム本拠地に立ち寄り、

リッチ指導のもと新たなトレーニング・プログラムを熟す。

トレーニングルームでシャワーを浴びながら、彼は大きな溜息を吐いた。

今日もとは別行動だった。

なにやら“会社”は彼女の持つ類い稀なマネージメント能力が、

ウェバーだけに留まることを良しとしていないらしい。

は現在の契約上、レッドブルの貴重な人材でもある。

ゆえにはロンドン本部のミーティングとやらに呼ばれ、

少なくともこの数日間はあちらで忙しくしているというのだ。

パフォーマンスエンジニアのギャヴィンの情報に寄れば、

彼が定期的にゲストとして招かれているオックスフォード学内での講義にも、

に立ち寄ってもらう予定だと聞いていた。

マネジメントのなんたるかを、経験を交えながら学生にレクチャーして欲しいと頼んだと言う。

ロンドン帰りにそのままオックスフォードのコースである。

彼女の帰宅は遠そうだ。

マークは今日までとほとんど毎日顔を合わせていたせいか、

ぱたりと関わらなくなるというのは、何やらとても心地が悪くてたまらなかった。

まだ雫の落ちる髪を覆うように、頭に大きなバスタオルを引っ掛けながら、

マークのトレーニング結果をまとめているリッチに声を掛けた。


「このあと“エスプレッソラウンジ”に寄って一杯どう?」


するとたちまちリッチの表情が華やぐ。


「いいね。マーク、先に行っててくれるかい?

 30分くらいで向かうよ」


マークはアルコールを飲まない。

もちろん、ポディウムで口にするシャンパン以外は。

彼の「一杯」が意味するものが、

紅茶やエスプレッソであることを知った上での賛同である。

彼が指定した店は、もともとはのお気に入りのカフェだった。

店内の奥に広がる陽当たりの良いイングリッシュガーデンが

とても心地の良いカフェレストランだ。

リッチも何度か訪れていた。

当然それらはすべてマークとと一緒にである。

だからホームの外で、彼とたった2人きりでティーを嗜むというのは

なかなか珍しいことに思えた。

――凡その予想はつくが。

リッチが着くとマークはサングラスを外し、テーブルの隅に置いた。

マークの手元にあるフェアトレードのオーガニックコーヒーを見て、

リッチは彼と同じものを注文した。

もともとマークは普段自分からコーヒーは飲まなかった。

ただこの店のコーヒーはまさに“特別”だった――その味を知ればこそ。


「家に居ても気が滅入りそうな気がするんだ。でもこんなこと初めてだよ。

 もちろん今だって、シンバとシャドーの待つ愛する我が家には違いないけれどね」


マークの素直な皮肉は、時に本家とも言えるイギリス人をも凌ぐ。

自身へ向けたシニカルな微笑みも相変わらずお手の物だった。


「この一杯を飲みきるだけの時間で冷静になれるなら、良いと思ったんだ」


マークはまるで懺悔のように口を開く。

リッチは彼の親身なトレーナーであり、忠実な友でもある。

ゆえに、まずその理由を否定も肯定もせず、

ただしっかりと聞いてやることが自分の役目なのだと瞬時に察した。

とりとめの無い話に興じ、最後は誰しもがそうであるように、

家族やバイクや車の話をして1時間ほど経つ頃には多少気も紛れていた。

今度はリッチが口を開く番だった。


「――マーク。俺たち、この間は散々な週末だったよな」


その話はもうしていたし、乗り越えたはずだろうに――マークはそんな顔をした。


「俺はメカニックじゃないが、俺たちウェバー組は君を含めて

 みんな身を粉にしてレースを乗り切った。

 知っている限りでも……なかなか壮絶な週末だったと思うんだ」

「ああ。結構な週末さ」


それに関してはマークも同意見だった。

チーム内にはすでに各々が気をつけるべきチームメイト同士の溝がいくつか走り、

今ではライバルに対して緊張を強いられることもしばしばだ。

「台無しにされた」だなんていつまでも引きずるのはマークの主義に反するが、

無かったことにしてしまうには、あまりにも傷が深すぎる。

ただしそれはもうとっくの昔に《いつものこと》になりつつあるが。


「……早くも帰ってくると良いんだが」


リッチが彼女の名前を出すと、マークはその言葉の真意がわからず、

眉根を寄せて首を傾げる。そんな態度に今度はリッチが驚いて見せる。


「おいおいマーク。

 あの時、俺たちみんな傷ついたんだ。だって例外じゃないよ」

「彼女はとても強い女性だ」

「ああ、そうだ。これは俺の本分だからこそ言わせてもらうとね。

 は本来あまり孤独は得意じゃないんだ。

 それらを乗り越える方法を知っているってだけだ。

 今回みたいな特に荒れた週末明けは、本来いつも通り君の側で過ごすべきだった。

 君の世話をせっせと焼いて、自宅とミルトンキーンズを行ったり来たりして、

 他のクルーたちと同じように心の整理を……」

「君はいつからのセラピストになったんだ」


リッチははたとして申し訳なさそうに苦笑する。


「すまない。

 ただマークが傷つくことに関して、

 俺らクルーの中でも一番ダメージを受けやすいのは

 実はだってことが言いたいだけだよ。

 君たちは本当によく心を通わせているからさ」


マークは腕を組み、唇を固く引き結んで俯く。

考えあぐねると顎と唇に手を添えがちだ。

しばし考えを巡らせると、顔をひと撫でして言葉を選ぶ。


「――つまり今はロンドンで参っているって?」


リッチは頷く。


「そのへんはボスに連絡すればいい。

 クリスチャンもロンドンの連中には少しばかり言いたいことがあるようだし。

 マーク・ウェバーが、彼の優秀なアシスタントがいなくて

 ほとほと参っているとでも言ってもらえばいいさ。

 とにかく今すぐ呼び戻してくれるよう頼めば、も君に感謝するんじゃないかな。

 そうすればレース内容にあまり興味のないあの本部の連中も、

 これ以上デリカシーのないことは」

「いや、いい」


マークはやんわりと遮った。

そんな辺りまで、ついに彼はよっぽどイギリス人よりイギリス人らしい。


「僕が迎えに行く」


愛車であるポルシェ911GT2 RSの鍵をくるりと回すと、

素晴らしいひらめきに夢中になる少年のように彼は店を後にした。

リッチにはこの《計画》があまりにも上手く行き過ぎたことが面白くてならなかった。

やれやれと口端を上げると、彼はまずなにより発案者ことチーム代表の

クリスチャン・ホーナーのアシスタントに一報を入れた。

























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“The Espresso Lounge”は実際マークがご贔屓にしているカフェ。

インタビューで「コーヒーは飲まない」と言っていた数年前を思うと、

ここのエスプレッソは最高だったのだろうなあ!

などと邪推してしまうのでありました。

20140518 呱々音